『COCOON24号』の紹介をしておきましょう。
偉丈夫に似合ふ立ち方してみむとすれば春雨に靴は濡れゆく
三沢左右「支」P17
漢語や古語を駆使するのが特徴の作風です。
立派な男を意味する「偉丈夫」というやや硬い語から、「春雨」や揺れてゆく靴といった柔らかいイメージへの展開が面白い一首です。
ちょっとりきんだ立ち方をしてみようとしても、現実には春雨によって濡れていく。
実はこの「支」という一連、十二支「ね、うし、とら・・・」を詠み込んでいる歌らしく、アクロスティックになっているとのこと。
ただ、かなりさりげないので、なかなか気づかないと思います・・・。かなり面白い試みですが。
(24首中、前半12首では頭に十二支、後半12首では末に十二支が詠みこまれています!お手元の『COCOON』を開いて、チェックしてみましょう)
中絶する妻を送りて見に来たりまだも崩れる熊本城を
梅田陽介「箱の中」P42
一首あたりに情報をちょっと詰め込みすぎの歌もあるし、ワンテーマだけなので、全体がやや重たいのですが、切実な内容として詠まれたのだろうと思います。
いまもまだ崩れている熊本城。熊本地震の影響かな。
いま家族が置かれている状況と重ねることで、城が受けたダメージにより強いイメージが加わります。
おじいさん犬おじいさんおにぎりのゴミおばあさん散歩してゆく
松井竜也「Loading画面」P45
道端の光景。ゴミステーションの近くを誰かが通るのを見ている。
人や動物のなかに「おにぎりのゴミ」という、食べ物だったゴミがひとつだけ挙げられていて、妙にリアル。
しゃぼんだまのしゃぼんのように思想犯の思想のようにあなたを好きで
小島なお「青空に唾」P55
比喩がふたつ並んでいるのですが、二つ目が奇妙な比喩だな、と思いました。
「しゃぼんだまのしゃぼん」と「思想犯の思想」は無関係なのですが、共通点を探すと、「しゃぼんだま」になるためには「しゃぼん」の要素が欠かせないし、「思想犯」のなかにはなんらかの「思想」があるはずなので、あるものを、そのものたらしめている本質だと思います。
相手のなかの本質的な部分にむけるまなざしや好意といったらいいかな。全体として、思い通りにはいかない現実が感じられる一連です。
雨は糸 糸がふるので傘をさす すくなからなく気疎い歩み
島本ちひろ「春じまい」 P65
初句から三句目までが好きな歌でした。
雨は確かに線状なので、糸みたいな感覚でうけとめるときもあります。「すくなからなく」はやや舌足らずな感じがしますが、どうでしょう。
春がそろそろ終わっていく様や、母親としての自分をやや突き放して見つめる歌など、展開が面白い一連でした。
あたたかく雨ふる夜に瞑想すショートケーキをのせてぎんがみ
岩﨑佑太「あをきうつつ」P67
瞑想の中身はショートケーキを載せている銀紙。細かくギザギザした輪郭が連なって、テラテラした光り方をしていたっけ。
銀紙の細かい光と、雨の細い条が重なって、イメージが広がる歌です。
一連全体でも平仮名が多く、美しい幻想的なイメージと、やや危うい部分とでバランスを取っていると思います。
〈あったか~い〉はひとりにひとつポケットは冬のコートにおおきくふたつ
高橋梨穂子「橋を渡る」P68
〈あったか~い〉はペットボトルのお茶。ひとりに1本ずつ買ったのでしょう。ポケットはコートにふたつ付いています。
冬に目立ちやすいアイテムを詠んだことで、この作者にとっての冬の大事なものや気になるものがわかってくる。
そういえば、見開き2ページに【 の記号が付けられていましたが、私には意図がよく分かりませんでした。
食べきれずコップに挿した菜の花がわつと咲いたら人類の負け
久保田智栄子「萌え葉のみどり」P78
冒頭にはウクライナ侵攻の歌があるので、当然繋がっているのでしょうけど、意外な発想からの「人類の負け」。
「わつと咲いたら」取り返しのつかない展開が待っているという発想は、日常から続いている恐怖なのだと思います。
霧のため遅れてゐます 駅員の声の範囲が霧になりゆく
有川知津子「霧笛」P80
アナウンスを流す駅員の声。その声までが「霧になりゆく」という把握が面白く詩的。
耳で聞いた情報を、視覚で展開していくのも面白い。
重心をずらしながらすこしゆれながら黒い絵の黒の濃いところ視た
大松達知「回答しない」P84
香月泰男の展覧会を見に行ったらしい。シベリア抑留の経験をもとにした絵画で知られる画家です。
画面に占める黒色が圧倒的な迫力を持つ絵画。「重心をずらしながらすこしゆれながら」は、絵の迫力ゆえでしょうか。見ている間に、クラクラしたのでは。
動詞が「視た」であることもちょっとしたポイントで、眼をそらしがたい作品だったのでしょう。
こんなにも皿があるのにほほえみのようなトマトを盛る皿がない
大西淳子「モルフォ蝶」P93
とてもきれいな食べごろと思われるトマトにぴったりの皿がなくて、単にそれだけを詠んでいるのですが、印象的。
なんだかちぐはぐな日常はよくあることで、この歌ではトマトと皿の関係に託されています。