波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

一首評「湖心」

旅人にあらざるこころ海ならずみづうみならむ湖心は匂ふ

水原紫苑『天国泥棒』P332

ふらんす堂短歌日記は、一日に一首の短歌が掲載される日記形式のユニークな連載です。この歌は、2022年11月13日の日付に掲載されている短歌です。

 

旅人ではないこころは海ではなく、湖だという。湖心は湖の中心。

 

旅人ではない、ということはあちこちに移動せずにある程度は一か所に定住している、ということ。

 

海には波があり、水の激しい動きがありますが、湖には大きな水の移動はなく、水面も穏やか。

 

海よりももっとしんとした、静的な場です。湖心が匂うことで、そしてその匂いを感知することで、主体はその場の存在感を確かめているようです。とても静謐な歌で、神聖さを感じます。

 

一首評「心」

積雲の量感持てる一車輛都心の心を離れゆきたり

 *都心=としん 心=しん

小池純代『雅族』「勤めの歌」P50

積雲は、こんもりしたフォルムがかわいい、シュークリームみたいな雲です。そんなふっくらした雲みたいな量感の一車輌が、都心から発っていった。

 

面白いのは「都心の心を」離れていった、という点です。単なる都心ではなくて、なぜ「都心の心を」なのか。

 

人や物が集中している都心。その賑やかな、あるいは騒々しい都市の中心からはなれていく車輌。

 

窮屈とも思える場所から離れていくことに少し解放される感じがあるのかな、と思います。

 

離れていくからいいのであって、都心に向かう車輌だと、全く違った雰囲気の歌になるはずです。

 

一首評「白木蓮」

しどけなく白木蓮の咲いてゐる春のゆふぐれはくるしくてならぬ

 真中朋久「相川」『重力』P87

木蓮はきれいですが、だんだんと花びらが広がって、ちょっとだらしなくなってきた頃だと思います。時間は春の夕方。道を歩いていて、白木蓮が咲いているのを見たのでしょう。

 

気になるのは「くるしくてならぬ」。なぜ苦しいのか。しかも苦しくてならないのか。ちょっと切羽詰まったような、息苦しいような…。

 

自分の中になにかが溜まっていて、それを出す術や場所がないような、そんな苦しさかもしれません。

 

鬱屈した感情をどうすればいいのか。思うようにはならない現実をどう詠むのか。たまに読み返し、考えてしまう。私にとって『重力』はそういう歌集です。

 

今日で3月が終わります。いろいろとバタバタしている間に、もう春になってしまいました。

一首評「首」

青空に首差し入れて咲いている木蓮の白さを言えばよかった

三井修「木沓」『海図』P73

 

青空に向かって咲いている白い木蓮。とてもきれいな景色です。「首差し入れて」が気になる表現で、わりと大きな花である木蓮が、なんとなく鳥の頭部のように思えます。

 

首を差し入れる、とは能動的な動作だな、と思います。みずから関わっていこう、みたいな姿勢なのです。そんな動きのある木蓮の花に対して、この歌の主体はちょっと消極的。

 

だれか木蓮の白さを伝えたい相手がいたのでしょう。結句が「言えばよかった」なので、結局は言わなかった、言えなかった。なぜ言えなかったのか、それはわかりません。でもなんとなく言えずじまいになってしまった。

 

木蓮の白さを」は9音、たっぷりと字数を使って、結句に繋いでいます。なんとなく躊躇ってしまって、結局は言えなかったこと。いろいろとあります。

 

いまさら仕方ないんだけど、言えばよかった。ちょっとした後悔として思い出す。そんな小さな苦みのある歌です。

一首評「銃」

使はなかつた銃をかへしにゆくやうな雨の日木蓮の下をくぐりて

鈴木加成太「千年の雨 二〇二〇年~二〇二二年」『うすがみの銀河』P109

そろそろ木蓮の季節です。とても好きな花です。

 

つかわなかった/じゅうをかえしに/いくような/あめのひもくれんの/したをくぐりて

 

私なら、読むときには 7/7/5/9/7とします。4句目にかなりの字余り。だいぶゆったりした感覚で読みました。

 

「使わなかつた銃をかへしにゆく」とは面白い比喩です。使用するつもりで借りたはずの「銃」。武器なので、戦闘で使用するか少なくとも動物を狙って撃つか、くらいの目的があったはずです。

 

結局使わなかったので、当然返しに行く。なんだか無駄なことを頼んでしまった、でも銃を使わなくて済んで、案外ほっとしているのかもしれません。

 

そんな中途半端な感覚で降る雨、と取りました。春の暖かい雨。もしかしたら、少しぬるい感じすらあるかもしれません。

 

微妙な温度の雨の日。木蓮の下を静かに進んでいく。ゆっくりと春の時間の進み具合を歩むようです。