波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

一首評「ダリア」

ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり

佐藤通雅「夏逝かんとす」『薄明の谷』P22

佐藤通雅さんの第一歌集から。

 

ダリア畑、という場からしてすこし異質な空間という気がします。ダリアの花は花びらがたっぷりあって、カラフル。丸いフォルムがとてもかわいくて見栄えもする。

 

畑にはダリアが一面にあったはずですが、その畑のダリアを弟が焼いてきた。圧倒的な火の力。あとには黒っぽい大地がむき出しになっていたはずです。

 

自分と弟がすれちがうときに、弟の身体から火の匂いがする。火や煙の匂いがするのは当然のことだけれど、大きな火を扱ってきた弟の姿に少し怖いものを感じました。

 

すれちがうとき、というのはお互いの身体が最も近づくとき。一面のダリアを焼いて消滅させてきた弟。兄弟とはいえ、異質なものを含んでいて、その差異がひどく自身のなかで気になってしまう……。

 

今年は佐藤通雅さんの歌集や評論集をまとめて読むことができました。特に評論はボリュームがすごくて、『岡井隆ノート』を近々、読み終わりそうです。これから私が評論を書く際に、役立てていけるといいな。

 

一首評「頁」

去る人と残る人いるテーブルの次の頁でわれは去るひと
松村正直「沈黙について」『について』P87

どこかのカフェの大きめのテーブルで、本を読んでいるシーンかなと思いました。テーブルには複数のお客さんがいて、それぞれは知らないもの同士。それぞれのタイミングで席を立っていく。

 

一つの場所から、去る人もいれば、残る人もいる。さて、自分は本の次の頁を読んだら、そのくらいのタイミングで出ていかないといけない。ある集団のなかを「去る人」と「残る人」で二分して、自身もあるタイミングで去らねばならない。自分自身を含めて、ちょっと突き放した冷静な描き方です。

 

松村正直さんの短歌では日常の些細な点を描きながら、ところどころで詩にするための操作があります。この歌では「次の頁で」がポイントかなと思いました。妙に具体的で、歌が引き締まる。

 

歌集全体として難しい言葉はほぼ無いのですが、描写力やポイントの作り方など、詩として立ち上げるための工夫がさりげなくあって、読んでいてなるほど…と思うことがあります。

 

私は松村さんの歌集を全て読んでいるので、長い時間のなかで、今までと似ているところ、変わってきたところなどに気づくことがあります。同じ歌人の歌集を長く読んでいく面白さも大事に味わいたいところです。

 

一首評「ネクタイ」

ペイズリー柄のネクタイ民俗の深さで馬場家のタンスより出づ

丸地卓也「ネクタイ」『フイルム』P70

 

作者の丸地さんは結社「歌林の会」所属。先日、みかづきも読書会で第一歌集『フイルム』を取り上げさせて頂きました。

 

歌集『フイルム』は、全体としてはわりと冷めた理知的な把握が多い中に、ときどきユーモアが顔を出すことがあります。この一首もそんなユーモアを感じる一首です。

 

「馬場家のタンス」はもちろん、歌人・馬場あき子さん宅のタンス。……実際に訪問したことがあるのかな。

 

(想像ですが)かなり使い込んだだろう古いタンスから、ネクタイが出てきた。ネクタイ一本なのだけど、その存在感が普通とは違います。

 

「民俗の深さで」という描写が面白い。「民俗」という語が、折口信夫釈迢空)の流れから登場する語であることはもちろんですが、短歌の歴史、結社「歌林の会」に自身がつながっている、という自覚がうかがえます。

 

『フイルム』は仕事の歌が大きな特徴でしたが、働く自分を詠むこととはまた別に、歌を詠む自分を描写するとき、小さなユーモアをもって大事に詠んでいる感じがあって、読んでいる私も楽しかった。

 

丸地さんが今後、歌人としての自分をどんな風にとらえて詠んでいくのか、楽しみにしたいと思います。

 

一首評「菱の実」

蓮を斫り菱の実とりし盥舟その水いかに秋の長雨

*蓮=はす、盥舟=たらひぶね、長雨=ながあめ

 与謝野晶子「曙染」『恋衣』P81

*引用は短歌新聞社文庫の『恋衣』

 

菱の実は秋、9~11月くらいに池や沼で採取されます。といっても、今では身近ではなくなっていますね。……私もやったことないです。地方によっては体験型イベントになっているところもあるようですね。

www.jalan.net

 

歌の意味としては、ある秋の日に蓮を切り、たらい舟で菱の実を取った。さて、この秋の長雨でその池の水はどうなっているだろうか、という意味だと思います。

 

塔のブログで、選者の真中さんが菱の実について書かれたことがありました。それを読んでいたため、『恋衣』の中の菱の実の歌に目が留まったのですよ。

toutankakai.com

 

明治時代に取られた菱の実やその池の様子はどんなであったか。ちょっと想像したり、調べてみたりするのも面白い。

 

誰かの話にヒントやきっかけをもらいながら、少しずつ知識を増やしていく。長い時間の中で積み重なっていくと、どんな厚みや広がりになっていくのか。

 

楽しみながら、歌に出てきた食べもの、動物や植物、当時の暮らしぶりなどを知っていきたいです。

一首評「小春日和」

いぬいぬと尾を振るものに連れられて老夫は小春日和となりぬ

佐藤弓生「触れてくる鞠」『世界が海におおわれるまで』P101

小春日和は陰暦10月。なので今の11月半ば。老人が犬を連れて散歩をしている。秋の中ごろの日ざしが暖かい日中に、町でちょっと見かけたシーンだと思います。

 

よく見る日常ですが、その描写が面白い。「いぬいぬと尾を振るものに連れられて」は犬が尻尾を振っている描写ですが、犬という名詞を使って「いぬいぬと」とオノマトペになっています。そして犬のほうが老人を連れている、と描写されています。

 

下の句では、老夫つまり年配の男性のほうが小春日和になってしまう。ちょっとメルヘンな感じもしつつ、発想が面白いです。

 

のどかな空気のなかで散歩の途中に、小春日和になってしまう老夫。とても幸せで穏やかな感覚なのだろうと思うし、散歩している間くらいは、こんなのどかな想像も楽しいかなと思います。