8月12日に野兎舎主催のオンライン講座『軍医の見た戦争 ― 歌人米川稔の生涯』を拝聴しました。
今まで私は3年にわたって、松村正直氏の戦争を考える企画を聞いてきました。
一昨年、昨年は松村正直氏の『戦争の歌』(笠間書院/2018年)をテキストとして用いて、戦争について詠まれた歌をめぐって考察する内容でした。
●戦争の歌の感想はこちら
3回目の今年は、軍医として太平洋戦争に従軍した米川稔が残した短歌とその生涯を通して、戦争について考える企画でした。
米川稔が、歌誌『多磨』に参加していたことや、宮柊二との交流があったことから、今回はコスモス短歌会の会員さんが多かったかな。
40代なかばにして、軍医として激戦地ニューギニアに赴いた米川。確証はありませんが、最終的には自決したらしいとも言われています。
食料や物資のない、飢えと病気が蔓延している極めて過酷な状況。日本あてに送られた米川の郵便には、具体的な歌集の構成と、歌集に収録してもらうための短歌が多かったらしく、それらの資料を見ていて、私は執念を感じました。短歌のかたちを取った遺書だな、と。
それらの郵便が多く現代に残されたことの幸運と、戦局が悪化してからは郵便事情のために失われた手紙もあっただろうということの無念を、松村さんがおっしゃっていたのが印象に残りました。
講座では、米川の生涯とその作品の紹介が主でした。コスモス短歌会の主宰であった宮柊二との関わりは、松村さんのブログに記事があります。
兵士として戦闘に参加し日本に帰ってきた宮柊二と、軍医としてニューギニアで死亡した米川稔。米川の短歌も、戦争によって翻弄された個人が残した一つの例なのでしょう。
ということなので、松村さんから米川稔について、またそのうち興味深い話が聞けるのではないかな、と期待しています。
(宮柊二記念館は私もそのうち行きたいのです。ちょっと遠いけど)