波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

松村正直 『戦争の歌』

松村正直氏による戦争の歌のアンソロジー


明治時代の日清・日露戦争から昭和の太平洋戦争まで。つまり、近代日本の始まりから敗戦までの間に詠まれた戦争の歌を収録してあります。

 

戦争を詠んだ歌は膨大な数があるはずですが、その中から51首を選んで紹介しています。抽出するだけでも大変だと思います。

 

基本的には1首あたり、見開き2ページという限られた紙幅のなかで、一首をどう解釈するのか、発表当時の反応はどうだったのか、歴史的なエピソードや作者の人物像などが、コンパクトな量で解説されています。

 

初心者向けのシリーズなので、アンソロジーの形でできるだけコンパクトな情報量の書籍を読みたい、という人には親切なつくりになっています。

 

本書のなかで印象に残った短歌や文章に触れつつ、感想を書いてみたいと思います。

 

 

 

「歌を歌として見る」ことの実践


本書のなかで、与謝野晶子の有名な「君死にたまふことなかれ」も掲載されています。現代では、反戦の歌として取られることも多い歌です。

 

発表当時は戦争や国家に対して反抗的としてかなり批判され、戦後は戦後で、反戦的な作品として高い評価をされてきたことを本書のなかで紹介してから、こう結ばれています。

原作を丁寧に読めば、晶子の主眼はあくまで弟の身を案じるところにあることがわかるからだ。

時代ごとの主義主張によって毀誉褒貶を受けてきた詩であるが、戦場の弟を心配する晶子の一途な気持ちは時代を超えて確かに強く伝わってくるのである。

 松村正直/『戦争の歌』/笠間書院/2018年/P31

 

この発想は、本書のP110に掲載されている「戦争詠の評価、戦争責任」によりはっきり出ています。

 

軍国主義的だから悪い歌」「反戦的だから良い歌」といった捉え方では歌を読んだことにはならない。それは、戦前に「軍国主義的だから良い歌」「反戦的だから悪い歌」とする考えが存在したのと同じことの繰り返しでしかない。

 松村正直/『戦争の歌』/笠間書院/2018年/P110

 

ごもっとも、と思いつつ、これは実践が難しい。

 

たとえば「現政権を批判している歌だからいいと思います」「立場の弱い人を詠んでいるからいいお歌です」これらの発言は、実際に参加した歌会で聞いたことがある発言でした。

 

さて、少々、短絡的にすぎないでしょうか。

 

人それぞれに立場があるし、思想もあるでしょう。自分とはまったく違う考えや信念に基づいて作られた作品について、反発を感じたり、不快感を感じることもあります。

 

その一方で、自分と同じ立場や思想の歌があると、内容を吟味せずにぱっと飛びつく姿勢もまたありえます。

 

自分と同じ立場や思想の歌であるから「共感できる」ということと、「作品として評価に値する」ということは、できるだけ分けて考えてみたいと考えています。

(完全な分離は難しいかもしれない。)

 

目の前の作品は、なぜこんな表現になっているのか、作者の真情はどこにあったのか、読ませるポイントはどこなのか、優れているのか劣っているのか、結論としてどう評価するのか。

 

自分の価値観や戦争観、歴史観がもろに出そうで、なかなか怖い。

 

怖いが、自分の価値判断をしていかないと、批評したことにならないのではないか。本作のなかでたびたび強調されている視点です。

  

戦争のたのしみはわれの知らぬこと春のまひるを眠りつづける  

  前川佐美雄『植物祭』

 一読して、怖いがいい歌だな、と思いました。

 

「戦争のたのしみ」とは不謹慎だと怒られそうだが、それでもなにか、他者を殺戮することや破壊することのなかに潜む、ある種の優越感や恍惚みたいな感覚を言い当てているようで、少し怖い。

 

その一方で、「春のまひる」というのどかな語が出てくる。時代がどうなっていようともわれ関せず、というか戦争の時代からすこし距離をとるような感覚が伺えて、興味深い。

 

本書のなかでは、のちに前川佐美雄が戦争を賛美する歌を詠んだことや、戦後の歌集からは一部の歌が削除された歴史的な経緯も少し説明されています。

 

どんな人物であっても、時代の価値観や社会の流れにはなかなか抗えないし、影響をまったく受けないというのも不可能でしょう。それでも、この一首のなかに存在する、少し醒めた空気感には惹かれます。

 

まず歌を歌として見る、というのは当たり前のようでいて、なかなか難しい。

 

本書の中では、戦意高揚のために作られたアンソロジーのなかの歌に触れつつ「現在の目で見ても良い歌が多く、単なるプロパガンダと切り捨てることはできない。」という一文もあります。 (松村正直/『戦争の歌』/笠間書院/2018年/P69) 

 

本書のなかに貫かれている「作品をまずしっかり見る」という松村氏の姿勢には感銘を受けます。

 

報道に基づいて詠むことの難しさ

ニュースや新聞をベースにして歌を詠むと、どうしても似たり寄ったりの作品に落ち着く傾向があり、それは震災詠や時事詠に特に多いパターンです。

 

本作のなかで紹介されている作品のなかには、ニュース映画(映画館で映画本編のまえに上映されるニュース部分)を見て詠んだ作品などもあります。

 

似たり寄ったりの作品ももちろん多くあったのでしょうけど、本書に紹介されている以下の作品に注目しました。

腰をかがめて高粱畑を馳る兵の背嚢は重そうだ。 ゆさゆさと揺れる    

*馳る=かける/「ゆさゆさ」に傍点あり    

  渡辺順三 『烈風の街』

 

工兵の支ふる橋を渡るとき極まりて物をいふ兵はなし    

*支ふる=ささふる/極まりて=きはまりて

  山口茂吉 『赤土』

 戦場で地を這っている兵士の視線に立った歌や、橋を支える工兵の姿に注目している歌など、知り得た情報と、どの部分に注目したのかの注目点が交差していて、興味深い。


詠みようによっては、単なる決まりきったイメージやステレオタイプから脱却することもできるはずで、作者がどこに注目するかが大きな差になるのかもしれないな、と思います。

 

報道によって詠む機会は現代も多いので、参考になる部分もあるんじゃないかな。

 

体験した惨禍を詠んだ歌

実際に原爆や空襲を体験した人の作品は、記録としての側面も持ちつつ、作品としても印象深いものがあります。

 

水のへに到り得し手をうち重ねいづれが先に死にし母と子

*本書では「到り=いたり」のルビあり

 竹山広 『とこしへの川』

 

既に二人とも亡くなっているのであるから、どちらが先であったかを考えても仕方がないことではある。

しかし、亡くなった人々の最後の姿を精一杯思い描くことによって、「死者約七万人」といった数字ではなく、一人一人の生身の姿が立ち上がってくるのである。

 松村正直/『戦争の歌』/笠間書院/2018年/P103

 

私はこの一首のなかの「到り得し」という語に注目しました。

 

原爆に遭った人々が水を求めてさまよった、という記述は他の書籍などで読んだことがあります。この母と子も水を求めてきて、やっとのことでたどり着いたのでしょう。

 

水辺に到ることができなかった可能性も十分にあるわけだし、たどり着いたところで、もちろん助からなかったでしょう。

 

また「うち重ね」とあることで死の瞬間まで一緒にいた母と子の姿や、体温みたいなものを伝えてくれます。

 

竹山広の歌は、原爆の惨状を直接見たものでなければ描けないシーンを克明に描いていて、生々しい。その迫力にはたじろぐばかりです。

 

同じ歌について書かれた、松村氏のブログの記事です。こちらも、的確に竹山広の歌の怖さを指摘している内容です。

 

http://matsutanka.seesaa.net/article/464683205.html


どこかの誰かに読まれるたびに、一首のなかでなんどもなんども再生される、最後の瞬間。竹山が見ただろう世界の一部を、一首を通して再生されている気分になります。

 

まとめ  

今回『戦争の歌』を読んでいて、同じ筆者による評論集『短歌は記憶する』を思い出しました。

 

基本的な考え方は『短歌は記憶する』の後書きに書かれていたことと共通しています。

 

短歌を読む時に大切なのは、できるだけその歌が作られた時点に立ち返ってみることだと思う。

 

現在では何の新鮮味もないことが、当時はすごく新鮮なことであったり、今では悪いとされていることが、その時代では普通のことであったりする。

 

だから、かつての短歌作品を現在の価値観に基づいて裁断するように読んだり、短歌を進化論的に捉えたりするのではなく、その作品の生まれた時代性を十分に考慮しながら読んでいくことが大切になる。

 

それは、現在の短歌に対して謙虚になることでもあるだろう。


 『短歌は記憶する』/松村正直/六花書林/2010年/P210

 

 

戦争に関連してうまれたおびただしい数の歌のなかから選ばれた51首を見ていくことで、戦争のひとつの側面を改めて追うことができます。

 

「短歌を通じて読み解く戦争」という難しいテーマですが、同時に非常に読みごたえのある内容です。