先日、クロストーク短歌に行ってきました。
今回のゲストは松村正直氏。
テーマは「絵画と短歌」
吉川さんの短歌には、美術展に行ったときの体験や
絵画を詠んだ歌はけっこう多いんですが
松村さんの短歌にはそんなに多くはない感じ。
絵画を詠んだ短歌を紹介したり、
自身の短歌のなかから絵画を詠んだ作品を分析してみたり、
アート好きなひとには興味深い内容でした。
印象に残ったことから少しだけ。
絵画をモチーフにした松村さんの連作「紫のひと」が紹介、分析されていました。
絵のなかに春の陽のさす午後の部屋ねむたくなればねむったりして
展示室に時計はあらず絵のなかの壁の時計が午後四時を指す
そこにだけ雨降るごとく対岸を傘さして歩む紫のひと
よく雨の降る絵であれば館員も慣れた手つきで掛けるモップを
松村正直 「紫のひと」
美術展を見ている一連で
絵を見ている主体と、絵の中の世界がだんだん混ざっていく点が
本当に面白い一連です。
絵の中にあるはずの春の陽から眠さを感じたり
絵の中で降っている雨から現実の館員のモップ拭きにつなげたり
絵画の世界に迷い込むような感覚が特徴的で、
だまし絵のような発想が面白い連作になっています。
一方、吉川さんの短歌でも
現実と絵画の世界を合わせて詠むことが多いのですが、
雰囲気はかなり違います。
『鳥の見しもの』の中で印象深かった「櫻谷/二〇二〇年の綿花」では
木島櫻谷の絵画を見た時の短歌が詠まれています。
空襲の無かりし京都ゆえ残りたる紅葉の絵に橋ひとつ架かる *紅葉=こうよう
竹林の隙き間に金色の陽は指せり日本画家には自画像あらず *金色=きん
吉川宏志 「櫻谷/二〇二〇年の綿花」
一首目のなかでは、戦争での空襲をまぬがれた京都という現実と、
絵の中の紅葉と橋が詠まれています。
また二首目も、絵画の描写からはじまって、
日本画家に自画像がない、という主体の気づきが続きます。
一首のなかで現実にあったことと、絵画の内容とが
セットになっていることが特徴ですね。
「櫻谷/二〇二〇年の綿花」という連作全体の中では、
櫻谷の絵画を見に行ったときの短歌と、
やがて戦争によって死者がでるのではないか、という現実の危機感の
両方が展開されています。
絵画という創作、いつか起こるかもしれない予想への恐れ、など
現実でないものと現実とが行ったり来たりしている点が
すごく印象的でした。
*
私は美術展や絵画は好きですが、短歌に詠むとなると
ちょっと避けてしまいがちです。
たぶん、絵画の内容を単に短歌でなぞって説明しただけになることが
嫌で避けてしまうのです・・・。
今回のクロストーク短歌からいろいろヒントをもらったので、
ちょっと今後、使ってみようと思います。