今回は松村正直氏の第二歌集「やさしい鮫」を取り上げてみます。
全体を通じて大変に平明な言葉で詠まれていながら、詩として成立させるための要は静かに存在しているので、丹念に追っていくと感情の変化を読み取れます。
松村さんの短歌で使われている言葉は、日常使っている言葉にかなり近いし、ものすごく凝った修辞があるわけでもないのですが、一首のなかの構造はとてもよく練られています。
大学卒業後にフリーターになって全国を転々とする生活を送っていたという経歴は、複数のサイトや書籍で見て知っていました。
その経歴などにも起因するのか、自分と他人との接点、自分と社会との接点、その継ぎ目のとらえ方がたしかに存在しているけれど、なんだか儚い印象が強いのです。
若い家族の歌
母になる不安に君は泣くだろうベランダに落ちている夜のシャツ P44
幸せを何度も自分に言い聞かす君はさびしい半島である P48
子の小さき二枚の耳を洗いおりかなしき羽根のような耳たぶ P54
第一歌集「駅へ」の最後には「結婚式」という連作が置かれていました。第二歌集ではその後の生活が大きな比重を占めています。
奥さんの妊娠、出産にいたる日々が父親になる不思議や不安と一緒に詠まれています。
一首目、「夜のシャツ」という言葉がとてもいい。白のシャツとか黒のシャツとかではなくて、「夜のシャツ」がぺたっと落ちているという状況。
取り込み忘れた洗濯物の1枚のシャツをおもったのですが、なんだかとても頼りなげな印象です。上の句の「不安」を具現化しています。
二首目、出産に向かっていく日々のなかでおめでたいはずなんだけど、どことなく寂しさやかなしみが滲んでいます。
大陸からはみ出した地形である「半島」が、幸せであることをくりかえす「君」の隠喩になっていて、しあわせなんだけどどこかに潜む不安の存在をかえって感じさせます。
三首目、小さな息子さんを入浴させているのでしょう。幼子の「耳たぶ」という、とてもやわらかい部分をクローズアップして描くことで、存在を強めています。
初めての雪を見せんと子に厚着させいるうちに雪は止みたり P90
ようやっと昼寝せる子のかたわらに残る虫食いだらけの時間 P104
声だけでいいからパパも遊ぼうと背中にかるく触れて子が言う P225
お子さんの歌にとてもいい歌が多かったという印象です。
一首目、お子さんがあんまり小さいと何かを見せても覚えていないことが多いんですが、「雪を見せたい、でも厚着させないと・・」っていう心情は確かにあるものです。
せわしない親の状況と、それとはまったく関わりなく変わってしまう天候との対比がすこし可笑しみさえもっています。
二首目、初句の「ようやっと」にものすごい実感があります。実感のこもった言葉をうまく取りいれると、いきいきとした感じが増すようです。
こどもを中心に生活が動くので、もう自分のためのまとまった時間とかなくなるらしく、「虫食いだらけの時間」というのもやっぱり親の立場にしたら的確で、かつユーモラスな表現です。
三首目、「声だけでいいから」というのがすこし切ない感じ、幼い子と父親の距離感を表していると思います。たとえ家族であっても、近くにいるんだけどすこし遠い、という心理的な距離がときおり見えてきます。
職場・労働の歌
踊り場の窓にしばらく感情を乾かしてよりくだりはじめつ P115
くやしさは月のひかりに幾重にも折りたたまれてつづく坂道 P165
職場や労働の現場での歌もちらほらあって、こちらも淡々と詠まれています。
一首目、職場でなにかしら不満なことがあっても「感情を乾かしてより」といった態度でひどく自制している感じがします。
怒りで感情がふりきれるとかいう状況がほぼなさそうな主体がいます。これは一種の諦観なのかな、とも感じます。
二首目、「月のひかりに幾重にも折りたたまれてつづく坂道」とは美しいようですこし怖い喩えです。
仕事のあとの帰宅の途中の坂道と、心情とを重ねているのかもしれません。やり場のない感情の襞が何重にもなって延々とつづく様子をなんとなく思い浮かべました。
風景の歌から現れてくる風景
はつなつの光のそそぐ境内の美しさには輪郭がある P183
反り深き橋のゆうぐれ風景は使い込まれて美しくなる P218
季節や風景を詠んだ歌にとてもゆったりした視点のある歌があり、見慣れた日常の切りとり方が鮮やかでした。
一首目、下の句がとても魅力的です。「美しさには輪郭がある」と言われることで美しさがくきやかに浮かび上がってくるのです。
二首目、風景が「使い込まれ」る、というのは「橋」なら往来する人たちの多さもあるでしょうけど単にそれだけではなくて、毎日のように眺める人の眼になじんだものになっていく過程そのものをとらえていると思います。
まとめ
ご両親が離婚しているとか、大学卒業後に各地を転々として暮らしてきたという作者のいままでの経歴などを重ねて読むと、内面に溜まっていた不安や孤独と進んでいく現実(特にお子さんができること)との接点をすくった歌に印象深いものが多いです。
もし関係性が薄い場合ならあまりかかわることをしなくてもいいのに、家族となると基本的には毎日の暮らしの中でかかわっていくし、家族との接点が、作者の内面に波紋をもたらしているシーンが歌になっていると思いました。
作者の経歴とか知っているプロフィールをどこまで反映して読んでいいものか、よく迷います。とくに正解などないだろうから、いつも揺らぎつつ読んでいます。
松村氏の第三歌集・評論集を最近あわせて購入して、いま読んでいるところです。こちらもそのうち取り上げていきたいです。