波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

染野太朗「人魚」

最近、染野太朗さんの「人魚」を読んでいました。非常に読みごたえのある歌集で、印象深い一冊でした。

 

内部には暴力的な衝動を持ちながら、直接の暴力はあまり描いておらず、全体として抑制のきいた歌集になっています。

 

ただ同時に、「人魚」を殴るといった象徴的な連作があり、描きにくい感情を描くためのひとつの手法になっていると思います。

 

 

 

日常の暮らしと感情

ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ   P78

 

飲食や掃除など、毎日行う家事の歌がけっこう多い。単に動作を行っているのではなくて、裏にはりついた感情をあわせて提示してくる。

 

この歌では、掃除機を引っ張っているだけなのだけど、思い通りにはいかない異物のような存在感。そこに見出すのは扱いの難しい孤独、という感情。

 

唐揚げと昆布巻きひとつずつのこる食卓 苦しいな家族は    P185

 

いろんなお惣菜を作ったけど、中途半端にひとつずつのこってしまった。テーブルの上に残された「唐揚げと昆布巻き」はちぐはぐな感じがして、妙に浮いた感じに見えてきます。そこから家族という単位のなかの半端さや違和感を導いています。

 

一冊を読んでいると、どうも離婚をしたらしい背景が見えてくるのですが、あんまり具体的には描かれていません。

 

妻と別れることも、今まで暮らしたマンションを退去することも、なんとなくわかるけど、伺える程度。あったことをストレートには言及せずに、かなり抑えた文体でつづっています。

 

全体として、意識的にコントロールされた文体だと思います。あえて描かないことでうまれる余韻や余白をよく分かっているのでしょう。

 

歌集中、淡々と過ぎていく日常の暮らしのなかに、人間的な感情の揺れや噴出が混ざっていて、そのバランスが危ういながらも保たれています。

 

繊細な感情の揺れ

たとえば、哀切や思慕といった感情も、一首ずつは、さりげない言葉で描かれています。

 嘘ですか 服を脱がせて皮膚に皮膚をかさねてきみの目は閉じていて    P116

 

海を見に行きたかったなよろこびも怒りも捨てて君だけ連れて    P118

 

「数秒」という連作のなかにある2首です。8首で構成されている連作のなかで、後半から(たぶん)回想が展開され、内省的な歌が並んでいます。

 

すでに終わった関係を振り返るとき、かつてあったシーン、過去の感情に戻っていくとき、甘やかなんだけど、切ない。

 

一首目では、「嘘ですか」という初句切れがとても強い印象。かつて愛し合った経験がうかぶけど、思い返すと、しょせん嘘だったのか、という問い。

 

二首目では、怒りだけでなく「よろこびも」捨てる対象であることに目が留まりました。

 

「君だけ連れて」海を見に行く、というささやかな願いはかなわなかったんだろう、という想像はつきます。

 

抑えがたい感情の噴出

君の手の触れたすべてに触れたあとこの手で君を殴りつづける     P129

 

さびしさが地蔵のように立っている怒りがそこに水を供える      P140

 

扇風機の羽の埃のようだったあなたを責めるあの感情は        P213

 

内面で感じている怒りをどう表現するのか、は難しい問題です。「人魚」のなかにずっと低音で流れているのは、どうにもならない怒り。

 

全体的に淡々とした雰囲気の歌が並ぶなかに、抑えがたい感情が表出した歌がときどき出てきて、ぎょっとすると同時に、内包された怒りに共鳴する部分もあるのです。

 

突発的に出てしまったかのような怒りは、心理の破れ目なのでしょう。やり過ごすしかない日常のなかで、たまにやってくる沸騰するような瞬間です。

 

一首目も、突発的に表にでる暴力。自分でもコントロールできない激しさ。殴る、という行為以上に、「君の手の触れたすべてに触れたあと」という経緯があるから、手や拳の存在感が、余計に怖い。

 

コントロールしがたい怒りは、孤独や寂しさと近い位置にある。二首目では、地蔵という道ばたに存在する信仰の対象が「さびしさ」、さらに供えられる水が「怒り」と表現されることで、昔どこかで見た路上での風景が、今の感情として立体的に再現される。

 

夏の間に使いこんだ扇風機の羽についた埃、そんな取るに足りないけど、たしかに付着してしまう汚れ。

 

相手を責める激しい感情を、いつのまにか目に見える状態になった埃に例えている。ちっぽけなんだけど、蓄積された末にぼろぼろと現われてしまった感情を振り返る。


    *

 

教員として学校で働く日常とか、家族との関係とか、わりと淡々とした語り口で描かれています。

 

ただ、たまに噴出する怒りとか、耐えがたい寂しさが1冊のなかで、出口がないような形で漂っています。

 

抑えている感情には、私の中にも、おそらく他の多くの読者の中にも共通して存在する、目に見えない塊のようなものがあると感じるのです。

 

抑制された文体と、それでも噴き出してくる感情と、そのバランスがすこし怖い面もあるのですが、読みごたえのある歌集です。