波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

大森静佳『カミーユ』

赤い花

 

カミーユ』は、大森静佳さんの第二歌集。赤い表紙にも迫力があります。

 

ふだん、歌会などで会う大森さんは、聡明なお嬢さんといった感じで、そんなに激しい感情の持ち主には見えない感じ。

 

その一方で作品を読んでいると、じつはとても激しくて美しい世界を持っているのだろう、とも思います。

 

  

 時代を超える歌の多さ

歌集タイトルになった『カミーユ』はロダンの弟子であった女性カミーユ・クローデルの名前からとっているとのこと。

 

カミーユ・クローデル以外にも、歴史上の人物の立場にたって詠んだ歌などが多く、時間や歴史を超えた内容が本歌集には多く含まれています。

 

わたしにとって印象的だったのが、「瞳」という連作。ドイツで反ナチス運動をしたことで、処刑されてしまった女性ゾフィーの人生への返信のような内容の連作です。

 

おまえまだ手紙を知らぬ切手のよう街の灯りに頬をさらして    P12

 

梅林を駆ければおまえ戦火とは濡れているあの火のことですか   P17

 

「おまえ」という普段は使わないだろう呼びかけを、あえて使っている歌が連作のなかで目立ちます。

 

一首目では「手紙を知らぬ切手」というと、まだ自分がいるべき場所を持たないような不安定な存在が浮かんできます。でも「街の灯り」という社会に設置された光が容赦なしに姿を浮かび上がらせます。

 

二首目では「濡れているあの火」という表現が印象的です。「濡れている」という表現は、通常は「火」という言葉とは使わないでしょうけど、わかっていてあえて違和を生み出しているのではないかな、と思います。

 

時代のなかで大勢のひとを飲みこんでいった火、「濡れている」という語で皮膚にまとわりつくような感覚を感じます。

 

不安定な時代のなかで短い人生を終えたゾフィー・ショル。

 

自分とはまったく違う人生に、作者がいっとき気持ちを投じた結果、生まれてきた短歌には、現実とは違う空気感が出ているように感じます。

 

触れる手、作る手

手をあててきみの鼓動を聴いてからてのひらだけがずっとみずうみ    P58

 

冗長な映画のような光来て春はあなたが庭そのもので    P70

前々から見られた相聞は本作でも健在で、静かな中にある一途さが印象的です。

 

一首目にその特徴は顕著です。「鼓動」という相手の生命を示す音を聴いてから、「てのひら」から「みずうみ」につながる発想は、自分の身体が相手とつながっている感覚のたとえとして、的確で美しい。

 

二首目は「来て」「そのもので」といった終わり方が気になるという声もあるかもしれませんが、春という季節がもつ間延びしたような光の加減、穏やかな空気など雰囲気のある歌です。

 

絵画や映画、そして自身が作る能面やお能の世界が、本作では大きな影響を及ぼしています。

 

確かめてから会いにゆく モナリザの背後の水の光らないこと   P112

 

彫ることは感情に手を濡らすこと濡れたまま瞳を四角く切りぬ 
   *瞳=め   P138

 

モナリザ」というあまりにも有名な絵画を見に行くのに、「背後の水の光らないこと」への注目。

 

ほかの人が見ないだろう部分にあえて視線を注ぐことで、「見る」という行為に深みが出ます。 

 

自身で能面を作っていく過程のなかで、「彫る」という行為がもつ深みとか、作品を生み出す「手」への思いが深まっているようです。

 

なにか作品を作る人ならある程度共感できると思いますが、作っているプロセスのなかで生じる感情によって、作品を生み出す手など身体の一部をいままでよりもずっと存在感を持って感じることがあります。

 

大森さんの場合は能面を彫っている手であり、手を介して能面という作品に力が入っていくのでしょう。

 

創造する手への共鳴

「彫る」「手」といった興味や関心からさらに進んでいった先に、カミーユ・クローデルの作品や人生への傾倒があるのだろう、と思います。

 

情熱的で、破滅的な人生を歩んだカミーユ・クローデル

 

(先日、ついに映画「カミーユ・クローデル」(1988年)を見る機会を得ました。

約3時間・・・長いです。ただ、歌集とあわせて見ておくといいですね。)

でもたぶん七月の雲のような瞳だイザベル・アジャーニの顔に嵌まって *瞳=め  P129

 

イザベル・アジャーニは映画「カミーユ・クローデル」で主演を務めた女優。そう、大きな眼が印象的だった。

 

「七月の雲のような瞳」なら、まだ自分の人生を信じていられたころの輝きでしょう。

 

モノクロで残っているカミーユ・クローデルの写真から、演じたイザベル・アジャーニの眼への転化。

ひとがひとに溺れることの、息継ぎのたびに海星を握り潰してしまう 

*海星=ひとで  P134

 

才能がありながら、ふさわしい形で開花させることができなかったカミーユ・クローデル

 

熱意や才能がありながら発揮する場がない、愛しているけど報われることがない、どうにもコントロールしがたい感情というのを、映画を見ながら私も感じました。

 

優れた作品を作り出す手が、同時に「海星を握り潰してしまう」ような破壊的な力も持つこと。

 

その二面性の危うさを凝視するような迫力を、連作「ダナイード」そして『カミーユ』を読んでいて感じます。

 

     *

 

全体として、とても激しい感情を詠んでいる歌が目立ちます。おそらくいろんな人が取り上げるだろう歌集なので、折に触れてまた読み返してみます。