江戸さんの第七歌集。
一冊全体を通じて、抑えきれない怒りや感情があふれている歌集です。
パワーに圧倒される部分があり、全体を通じて読み終わると少し疲れてしまうくらい。
本歌集のメインのテーマには父親の死と、拉致問題という社会的事件の2つがあります。
怒りや憎しみなど激しい感情の言葉は、歌の中で使うと、ちょっとインパクトが強すぎてそこだけ浮いてしまったり、空回りしたりして、かなり扱いにくいと思います。
本歌集では、作者はあえて硬い熟語や強い言い回しを使うことで、内面にある感情を吐露しているのですが、あくまで短歌の表現として練られた作品になっており、そのあたりのバランスも興味深い歌集です。
父の死を追う
江戸さんのお父さんが亡くなってから、あまり時間を空けずに歌集は編まれています。
まだまだ気持ちが落ち着かず、苦しい気持ちもあったはずですが、あえて歌集に残す形を優先させたのでしょう。
歌集の冒頭では、まだぼんやりと、そう遠くない死を意識している父や家族を描いています。
だんだんと終盤になるにつれて、病室の中の様子や父の衰弱ぶりが増えていき、最後には父の死が描かれます。
とりわけ「父」といった連作以後は、目の前で苦しむ父親の姿を、かなり率直に詠んでいて、病室の中にいたときの空気感とか父親の息遣いとか、「その場にいる感じ」が伝わる歌が多いです。
病気や介護など、弱っていく家族の苦しみを詠むのは、作者にとってかなりつらい経験だろうと思います。
あえて詠むことによって、抱えた重さを他者に見せて、共有することに価値を見出したのではないかな、と思います。
焼夷弾のようだと花火をいう父に窓がしずかに寄りそっている P17
不器用な父が隣でぶちまけたジュースまみれのモルポワ詩集 P142
四月から九月を一気に破り捨て父と最後の柿をたべよう P145
三日月が胸につまっているからと喘鳴の夜をひとり越えゆく P157
江戸さんの父親の世代なら、太平洋戦争の記憶が自身の経験としてあるのでしょう。
きれいな花火も、記憶のなかの「焼夷弾」と結びついてしまい、遠い過去が呼び戻される。
父が窓際にいるはずですが、逆に窓が父に寄り添っている、とすることで物と人の関係が逆転します。人が絶対的な存在でもなく、儚い存在になっていく。
亡父は詩が好きな方だったのか、本歌集のなかでは、詩集に関する歌も少し出てきます。手が滑ったのか、ジュースまみれになった詩集が傍らに置かれている。
景としてはそれだけですが、物の描写からわずかにやりきれなさを感じ取ります。
「四月から九月を一気に破り捨て」に勢いがあり、春から秋にかけて、あっという間に時間が過ぎてしまったのか。「最後の柿」を食べることも、じきに来るだろう別れのための準備なのです。
病室で傍にいても、結局は病の苦しみは、だれも代われない。父が背負う苦しみを「ひとり越えゆく」さまをすぐ近くで見ていて、しかも作品化していく。「三日月が胸につまっている」という表現を、つらいけど美しいな、と思う読者の私がいます。
身近な人の苦しみや死を作品化して残しておくというのは、貴重であると同時に残酷なことでもあります。
丹念に病の日々を作品化することで、忘れまい、忘れまい、という作者の意思が迫ってくるのです。
抽象性の高い拉致問題の歌
拉致問題は、初期のころから江戸さんの作品のなかの大事なテーマの一つです。本歌集ではかなり抽象度の高い歌が多くなっています。
今までの江戸さんの歌集を読んでいる人なら、「あ、これは拉致問題を扱った連作だな」と気づきそうですが、『空白』で江戸さんの歌集をはじめて読んだ、という人にはやや分かりにくいかもしれない、とも思いました。
単に「北朝鮮が悪い」「日本政府が悪い」といった形ではなく、人間が犯す罪やその後の長い苦しみなどを詠むことに挑んでいて、スケールの多い社会詠ではないでしょうか。
拐われたものが誘う秋の国ミヤマアカネを火の舟となし P106
夕映えに二つの出口ひとつには不死と書かれてわれは選ばず P181
「ミヤマアカネ」は小型で、とてもきれいな赤とんぼ。でも「火の舟」にすると、怒りや怨念のようなものを感じさせて、とても不吉なイメージがあります。拉致という大きな断絶を抱えたまま、国と国との距離を描きます。
二首目は少し、どきっとする歌。夕映えという不可思議な時間に表れる出口のうち、ひとつには「不死」の文字。しかし自らは「選ばず」というのは、強い意思がなせることです。
時間のなかで老い、弱っていく人間であることをわかったうえで「不死」を選ばないのは、有限な生命を引き受けていくから。
無いままで受容する精神
『空白』というタイトルになっているのは、自分のなかのぽっかりした空白、大事なものが抜け落ちた社会など、複数のイメージをまとっているタイトルだと思います。
一冊のなかで「ないもの」を詠んだ歌が印象深かったです。
不在なら不在のままに愛するだけすっからかんとドアを開けたり P34
親しい相手が不在になり、居なくなった後にパッとドアを開ける。当然ながらドアの向こうに相手はいないし、(室内に向かったドアなら)荷物や家具などもないのかもしれない。
不在であることを認めつつ、受容しながらそれでも相手のことを思うという姿勢が、愛情や気持ちの深さをうかがわせます。
もどらないボートのようにバゲットがパン屋にありて夕闇は来つ P46
「もどらないボート」も不吉な予感がする比喩です。長細いバゲットが、素朴なバスケットなどに盛られているのでしょう。
パン屋という街角の店から、夕暮れになっても帰ってこないボートやそれに乗っていただれかの不在を思わせて、寂しさや静かな怖さが漂います。
なにかが欠落することは、人間にとってはとても不安で、怖いことです。
しかし、『空白』の歌からは、なにかが欠落したまま、すぐにはどうにもできない現実を見つめながら、それでも・・・という強い意思を感じるのです。
まとめ
一冊全体がかなり重たいうえに抽象性が高い内容なので、正直言って、ちょっと疲れてしまった読後感がありました。
でも、繰り返し読むうちに、終盤にかけて悲しい現実と向き合う姿勢を鮮明に感じます。
連作のなかで父は病状が悪化し、弱り、ついに死を迎えます。
父親の死という大きな欠落と、そこからの開放を思わせる構成になっており、ずっと読むなかで、死を見届ける追体験をしたように思うのです。