波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

光森 裕樹『うづまき管だより』

 光森裕樹さんの第二歌集『うづまき管だより』を読んでみました。

2010年から2012年までの作品が収められています。この歌集は電子書籍なんですね。

・・・実際に読んでみて、これはこれでいいかもしれないな、と思っています。

いや、紙の本好きですけどね。

 

第一歌集ではとても美しいイメージを定着させていた歌群ですが、『うづまき管だより』ではもう少し他者の輪郭が出てきたように思います。

 

他者との距離感

いい意味で、ね。と付け足して切るときのパプリカに似たその切断面  

イヤフォンをあらたに買ふは常ふゆのみぞおち友を替へるにも似て   

春紫苑の茎の空洞ひとごとに忘れずのこるものは異なる      

棄てかたと去りかたのみが吾をわれたらしむるもの夏鳥を追ふ     

一首目はとても示唆的な一首です。
他者との会話をしていて、なにかマイナスイメージを
纏った言葉を言ったのでしょう。
「いい意味で、ね。」と付け加えるのだけど
そして決して嘘ではないのだけど
空虚さを内包している会話でもある。
「切る」という動詞は会話を打ち切る
ということかなと思ったのですが、
「パプリカ」という野菜を切るときの動作や
「切断面」のイメージが浮かんで
オーバーラップしていきます。

二首目はなじみ深いアイテムである「イヤフォン」と
友達を替えるという行為の結びつきが面白いです。
とても淡い人間関係はそんなものかもしれない、
という共感があります。
「ふゆのみぞおち」は冬のはじめから中間くらいかな。

三首目は景(具体的なもの)と情(観念や思い)の組み合わせ。
「茎」という細い物体の中の空洞から、
人の内面の深み、残っていく記憶や思い出の差異に
想像が膨らみます。

四首目は共感した歌。
「棄てかたと去りかた」は決断しないといけない局面なので
どうしようもなくその人の特質が出てしまうのでしょう。
夏鳥を追ふ」という結句に主体ならではの去り方のイメージが提示されています。

 

親しい人の描きかた

この秋の把手のごとく見てゐたり君わたり来る白き陸橋

陽を嫌ふあなたがナイフに崩しゆくナポレオン・パイの屋上屋

一方で、親しい人の存在は第一歌集よりもくっきりしてきた感じがあります。
一首目は「この秋の把手のごとく」が美しい。
扉の「把手」という小さな物と、「白き陸橋」という大きな物体との対比が
面白いイメージの重ねかたになっています。

二首目では苺がたっぷりのった「ナポレオン・パイ」を食べている人は
「陽を嫌ふあなた」だという。
「屋上屋」を崩している、というシーンが面白くて
パイ生地が重なっている「ナポレオン・パイ」を
ユーモアを交えて詠んでいます。

 

連作を構成する意識

がたん

並走する列車のなかをあゆみゆく男ありどこか吾に似てをり    

ごとん

並走する列車のなかを見つめゐる吾ありどこか彼に似てをり

光森さんは連作を構成する意識がかなり強い人のようで、
2首~4首あるいはそれ以上の短歌をセットにして
繋がっているときがあります。
上に引いた2首はその一例です。

よく似た短歌ですが、「男」と「吾」が入れ替わっていて、
対になっています。
『鈴を産むひばり』の中にも少しあったのですが
(『鈴を産むひばり』P56参照)
第2歌集以降でよく見かけるようになります。
すこしずつシーンや位相をずらしていくことで
シークエンスを生み出しているので、
映像みたいなつくりだと思うことがあります。

 

第二歌集で出ていた変化に注目しながら見てみました。第三歌集も、もう一度読み直してみます。