波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2018年6月号 5

ちょっと追加があります。先月の若葉集で、次の歌を取り上げました。

努力してないからダメか努力してないからダメか努力してない    小西白今日    塔2018年5月号 P175

面白い歌だなと思いつつ、なんか見たことあるな、という気分も抜けずにいました。

・・・やっと思い出したのが、この歌です。

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ    中澤 系 uta 0001.txt』

こんな特徴の強い歌をなんでパッと思い出せなかったのか・・・。

この歌を踏まえているとしても、やっぱり取り上げたとは思いますが。

今さらですが、ちょっと補足してみました。

買いたての詩集を逆から読むようなうしろめたさを持ち会いに行く    真栄城玄太 P168

真新しい詩集をあえて後ろから読んでいく。

最初から読まないのも小さな背徳なんだろうか。

なんとなく間違ったことをしているような感覚を持ったままで、会いたい人に会いに行く。

うしろめたさにかかる比喩がちょっと不思議で、ミステリアスな感じもします。

音数で区切ると、「うしろめたさを/持ち会いに行く」となるけど、意味の上では四句目が長いように見える。

「持ち」で一呼吸おく感じになって、それでも会いに行く、といった気持ちを感じます。

夜の道に走り続ける高速の僕らはひかり 抗うほうの   近江 瞬    P171

このあいだ、電車に乗りながら向かいの車道を走っていく車の光を眺めることがありました。

夜の道を走っていく車って、「車」ではなくて動く「光」として認識しそうだな、と思いました。

暗い空間を光が流れていく感じがしたので。

この歌を見たとき、なんとなく思い出しました。

この歌の作中主体は高速道路を車で走っている最中だろう、と思います。

途中までは単に車に乗っている歌かな、と思っていたのです。

でも四句目で「僕らはひかり」さらに一字空けて「抗うほうの」で終わっています。

光っているのは車のライトなどではなくて、自分たちだという。

しかも従順なタイプではなくて、あえて抗うタイプ、として認識しています。

「僕ら」となっているので2人以上で乗っているのでしょう。

一緒に乗っているもの同士、気持ちのうえでの連帯があるのかもしれない。

なにかに対抗していくときの勢いをちょっとだけ感じます。

目覚めたら誰かいてくれハンガーをいま落ちようとするカーディガン      拝田 啓佑   P174

いまから眠ろうとしているのだろう、と思います。

作中主体は眠りに入る意識のなかでカーディガンがハンガーからすべり落ちるのに気づいたのでしょう。

だからといってわざわざカーディガンを拾うこともなく、そのまま眠りに入る。

薄れていく意識と、重力で落ちていくカーディガンの様子がなんとなく重なってイメージされます。

「目覚めたら誰かいてくれ」これは一人暮らしだからかえって、こう思うのかな、とも思います。

いるはずないけど、だれかいてくれ、と願ってしまう。

なんだかちょっとくたびれた感じの様子が浮かんできます。