波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

細川光洋『吉井勇の旅鞄』 【歌集・歌書探訪】

塔2022年11月号に掲載された「歌集・歌書探訪」の記事を以下にアップしておきます。今回取り上げたのは、細川光洋さんの『吉井勇の旅鞄』。

 

400頁に及ぶ本書を繰り返し読み、吉井勇の歌集のうち数冊を読み、自分の考えを書き出してまとめていく作業は、時間はかかるけど楽しいものでした。

 

「旅のなかを生きる」


吉井勇の旅鞄』は、「短歌研究」誌上において連載された内容に加筆訂正を加えた、細川光洋による吉井勇の評伝である。

 

吉井勇は伯爵家という恵まれた生れの、耽美な祇園歌人というイメージが強い。しかし夫婦関係の破綻を迎え、逃げるように旅に出た吉井勇の姿は、あまり知られてこなかった側面である。本書は、華やかな青年時代の面影を失って、そののちの日々に苦悶する吉井勇の姿の記録である。


従来のイメージのその後に光を当てた点に、本書の面白さがある。通説を覆すような資料の提示があるのも意義深い。例えば、吉井が爵位を返上したと言われていたが実はそうでなかった点や、「明星」に吉井作品が初めて掲載された時期を明らかにしている点等である。


本書と並行して、吉井勇の歌集『人間経』『天彦』などを読んでみた。何度も詠まれる孤独や屈折した思いから伝わるしみじみとした心理の味わいがあり、次第に自身の境遇や人生を受け入れる印象が出てくる。旅の中で現実を受け入れる素地が出来上がったと言えるだろう。

 

何ごとも忘れはてむとあはれなる四十路男(よそぢをとこ)はまたも旅ゆく 『人間経』


離(さか)り住むは棄つるにあらでいや深くわが世いとしむゆゑと知らずや『天彦』

 

かつて華やかな時代を共に過ごした竹久夢二など友人たちの死、歌の師であった与謝野鉄幹の死など、周りの人々の死が歌行脚の後押しをした点も丁寧に考察されている。

 

取り上げられているのは著名な人物ばかりではない。市井の人々とのエピソードも多い。筆者がどこまで意識したかはわからないが、本書は吉井勇版の「点鬼簿」ともいえるだろう。

 

吉井勇本人は、自身の人生への悩みや孤独の深さに精一杯だったのかもしれない。しかし、吉井が作った草庵が他人にとっては人生の転機や慰めになっていた面もあり、「縁」を生み出す吉井の求心力が興味深い。

 

個人的に驚きつつ感慨深かったのが、学生時代の木村久夫が、高知県猪野々の依水荘という吉井の発案による別館に頻繁に出入りしていたこと。木村は学徒兵として戦地に赴き、戦後には上官の罪を着せられる形で戦犯扱いとなり、シンガポールの刑務所で処刑された。

 

きけ わだつみのこえ』には、木村の長い長い遺書が収録されている。久しぶりに該当箇所を読んでみたら、確かに猪野々の記述があった。遠い異国で亡くなった青年と、歌人吉井勇との縁を、意外な形で再発見できた。

 

欲を言えば、実生活のディテールをもう少し読みたかった。人との出会いや私信のやりとりは詳細だが、それぞれの土地で、具体的にどのように過ごしたのか。何を食べ、どのような酒を飲み、どのような部屋で寝起きし、近所にはどんなものがあったのか、などの描写があれば、さらに深みが出たかもしれない。

 

いつまでも『酒ほがひ』の頃の青年でいられるはずもない。本書から浮かんでくるのは、ままならない人生をいかに引き受け、老いを生きていくか、一歌人の苦悶のひとつの形である。
短歌研究社・五四〇〇円税別)

(塔2022年11月号掲載)