塔には「歌集・歌書探訪」という連載があり、歌集や評論集、アンソロジーなどを取り上げて書評を掲載する内容となっています。
2年間(24か月)の連載を、6人でリレー形式で回します。なので、一人あたり半年に1回、合計で4回の執筆の機会がやってきます。
私は号数でいうと、5月号と11月号に掲載していただきます。「これは面白い」「他の人にも読んで欲しい!」と思った歌集などを取り上げ、精一杯レビューを書かせていただきます。
今回は2022年5月号に掲載していただいた川野里子氏の『天窓紀行』の書評です。
「交差する死を思う」
ふらんす堂のウェブサイトで連載された二〇二〇年の短歌日記。コロナ禍による生活の変化の記録にもなっており、振り返って読むととても興味深い。感染症の影響はあらゆる方面に及び、短歌日記全体のトーンを決定してしまった。
おのづから孤高になるまで浮かべよと告げられて病む巨船がひとつ P44
妹を知らず 彼女が白衣着て働くあやふき境を知らず P362
一円玉を避(よ)けて降る雪こんなにも静かに女ら自死してならず P379
二月前半には、ダイヤモンドプリンセス号の一首がある。「おのづから孤高になるまで」浮かぶほかに術を持たず、といった閉塞感はどうだ。
川野の妹は医療従事者として勤務しているらしく、二首目ではその過酷な現場を思いつつ、しかしあえて「妹を知らず」という。境遇が違うため、姉であってもわからない面が多くあるのだ。
三首目は、十二月二十八日の歌。女性の自殺率が大幅に増加していることを詠んだ。コロナの影響は、経済的に困窮している、または困窮しやすい側に端的に現れる。
なのに、ずいぶんと静かなもので、彼女たちの自死は認識されているのだろうか。
「一円玉を避(よ)けて降る雪」は奇妙な表現だが、軽々しく扱われる生命の象徴かと思う。
鍵穴に鍵を挿すとき空き家にはおほきなさびしい耳ひとつある P9
濁流のなかに老母を残さずによかつた死なせてやつてよかつた P200
やがて来むなにか来むとぞ待つ瞳母はしてゐき逝かむとしつつ P353
居住地と実家との往復が、たびたび詠まれている。誰も住まなくなった実家は、人がいたころの空気が残る容器みたいになっている。
鍵を挿される鍵穴を、人体の「耳」にたとえたことで生物っぽさが出る。
前作『歓待』で他界した母親のこともたびたび登場する。かつてその死を間近で見届けた事実が、事実の重さが、ふと浮上する。
二首目は、豪雨による河川の氾濫についての七月九日の一首。既に死者である母はもう安全なところにいて、河川の氾濫に怯えることもない。
年老いた母を「死なせてやつてよかつた」とは、読者を沈黙させてしまう表現である。死を迎えたことで得られる安堵が皮肉だが確かにあるのだろう。
三首目は十二月二日の歌。母の延命治療をしなかった決断をいまだに迷うことが記されている。
感染症による大勢の人の死と、母のただ一つの死。パンデミックの中、死について考えざるを得ないのだ。
一方で、日常の些事への視線も注目したい。
書き泥む手紙わたしはその人の心の水面に浮くみづすまし P48
手紙を書くことが苦手らしく、迷いつつ書いている様を水面でぐるぐる泳ぐ「みづすまし」に託す面白さ。
カシューナッツちからを溜めて皿のうへこんな形の苦しみがある P272
内側に力があるために歪なフォルムになるという把握と読んだ。
本歌集はずいぶん特殊な一年の日記となってしまったが、川野の日常のなかに点在する感情を味わえる一冊である。
(塔2022年5月号掲載)