波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

菅原百合絵歌集『たましひの薄衣』 【歌集・歌書探訪】

塔2023年11月号に掲載された書評を掲載しておきます。菅原百合絵さんの第一歌集『たましひの薄衣』を取り上げました。

 

塔の「歌集歌書探訪」のコーナーで私が担当する書評は、今回が最後です。2年間に4回だけの出番ですが、とても楽しく書籍を読み比べ、書くことができました。

 

担当させてくださってありがとうございました。また別の機会があれば、よろしくお願いいたします。

 

 

 

「美しい試み」


『たましひの薄衣』は菅原百合絵の第一歌集。本郷短歌会在籍時の菅原作品に感銘を受けたことを覚えている。その作者の歌集が世に出たことが嬉しい。


全編にわたって貫かれているのは、格調高い美意識で描かれる世界。文学、絵画など作者が親しんできた芸術をモチーフにした短歌も多く、作者の精神とその構築に関わった作品群を見ているような楽しさがある。静謐で厳かな雰囲気だが、確かな情熱があって、美と向き合う姿勢を感じる一冊であった。

くちづけで子は生まれねば実をこぼすやうに切なき音立つるなり P23


愛執と愛の差わづか三日月のあやふき欠けを見つつ帰りぬ P29


美しい相聞歌が多いのも特徴。くちづけの「実をこぼすやうに切なき音」を描きとめる感覚が印象的だった一首。「実をこぼすやうに」に触れていた実感やリアリティがある。


「愛執と愛の差」という両者の危うい微差を意識している二首目。ささやかな差への注目や気づきが、繊細な世界を作り上げる根本にあると思う。

 

ノアのごと降りこめられてゐるゆふべcorpsをcorpsと訳し直しぬ 

*corps=からだ *corps=かばね P41


語源なるpassioの泉よりpassionの潮吹きだすまでをたどりつ 

*passio=苦 *passion=情念 *潮=うしほ P62

 

フランス文学の研究者であるため、翻訳作業の際の言語へのこだわり、繊細な違いへの注目などが印象深い。

 

「corps」に振られている「からだ」と「かばね」のルビ。同じ一語だが、まったく違うイメージになる。言語、単語から派生するイメージをすくって短歌に留める術に長けている。

 

「passio」には「苦」、「passion」には「情念」のルビ。熱意や情念が苦から生まれる点、示唆的である。

 

情念と芸術については歌集冒頭にシラーの言葉が添えられており、情念からの解放をまずテーマとして掲げていることにも注目したい。

 

旧姓を「若き娘の姓」と呼ぶフランス語まだ馴染めずにあり P111

 

「わたしの夫」と呼ぶときはつか胸に満つる木々みな芽ぐむ森のしづけさ 

*夫=モン・マリ P112

 

歌集中には結婚にまつわる作品もある。結婚に伴って主に女性の側に発生する「旧姓」。フランス語に感じる軽い違和感や馴染めなさ、新しい生活への心の揺らぎなど、ひとつひとつの心情や気づきを編みこむように詠んでいる。

 

「わたしの夫(モン・マリ)」と、新婚ゆえにまだ使い慣れない呼び方をするときに感じる不思議な感覚を、木々の芽ばえのエネルギーに託すことで放出する。同時に森全体の静寂に落ち着くのは、ささやかな感情のそよぎだから、と読んだ。

 

菅原の短歌は、内面のはかない揺らぎをできるだけ壊さないように変質させないように、言葉を駆使することで形を与え、保存しようとしている。本書は美しい試みである。

 

塔2023年11月号掲載