今回は小島ゆかりさんの『雪麻呂』を取り上げてみます。
シンプルで上品な表紙の歌集です。
老いていく親の介護の歌
ちちははをさびしき崖とおもふなり父の崖崩れ母の崖残る P42
心から父は壊れて体から母は壊れて 草の絮とぶ P157
息子もうわからぬ姑と手をつなぎ 歳月は花束とピストル P102
生くる蟻が死にたる蟻を通過する夏のいのちの無限数列 P139
小島ゆかりさんが、家族の介護のために長い歳月を費やしてきたことは、今までの歌集からも知っています。
人が老いるタイミングやその進行具合にもいろんな形があり、小島ゆかりさんの場合、父親は精神、母は身体からさまざまな困難が生じたのでしょう。
容赦ない老いと、すぐ近くで介護を担うことになった側からの心情の歌群に、人生の寂しさややりきれなさがにじむのです。
三首目は、小島ゆかりさんの歌としては、やや難しいのかもしれません。
長い長い介護の時間を過ごして、様々な形の老いや死を見てきているためか、歳月をあえて言うなら「花束とピストル」という極端な2つのアイテムで象徴させる。
「花束」は感謝や優しさを思わせるし、「ピストル」は容赦のない仕打ちや恐怖を思わせる。
流れていった歳月の中で、得たものと失ったものの両方を端的に示した結果の比喩なのかな、と思ったのです。
夏の蟻の行列を見ていても、小さな虫たちの世界のなかに、生死の対比がくっきり見えてしまう。死んだ蟻のそばを淡々と過ぎていく、生きている蟻。さらに延々とその様が続くのです。
「無限数列」はもともと数学の言葉ですが、硬質な響きや字面の効果も合わせて味わいたい。
いつかくる自らの死をおもう歌
あふむけは死者と対面するかたちあるいはわれが死者となりても P69
小さき手はるなつ過ぎて女の手あきふゆ越えて皺ばむこの手 P226
作者は自らにも老いがきて、そしてその先に死があることを予感しているし、知っています。
いつか自身があおむけになって、周囲から死者として扱われることを想像する一首め。
「あるいはわれが」でいつかくる日に自らを置いてみる。
過去が過ぎ去り、そして老いを感じつつある現在を「手」の変化を通じて描きだす二首目。
「手」と人生のなかの季節をからめてリズムよく詠んでいるところに、小島ゆかりさんの短歌ならではの楽しさやしたたかさの一端を見る思いがします。
平明な言葉で覚えやすく言いやすい。なんとなく童謡に通じる親しみやすさがあるのです。
いま伏せた茶碗のやうにひと日暮れ途方もなし一人生きて死ぬこと P127
黄昏は深海に似てだれのこゑも遠いなあ時が透きとほるなあ P132
生死のありようを見つめてきた歳月は、作者の中にどんな感覚をもたらしたのか。
茶碗を伏せるという行いは日常のなかのささやかな動作ですが、そのさりげなさのような日暮れ。
一日が暮れていくことの繰り返しの果てに人の死は来るのですが、その時間の流れの途方もなさ。
一日と人生の対比がさりげない様子で詠われ、じんわりと納得してしまう。
黄昏の歌では、二首目も印象に残りました。
「だれのこゑも遠いなあ時が透きとほるなあ」の力を抜いたような言い回しが魅力的。
「~なあ」ののびやかな声によって、すこし現実から浮遊する。
たっぷりとした夕映えのなかで自身の精神を解放するような声です。解放したいのかもしれない。
物の実在感がある歌
これはこれはと箱をのぞけばてりてりとわれを見かへす富有柿たち P180
風鳴りのかなたから来るしづかなる濃きひかりありたちまち燕 P222
歌集中にたまに置かれている、身近な物の歌もとても好き。物体の実在感の出し方が、やはり巧みなのです。
「これはこれは」「てりてりと」といったリズムのいい言葉によって、最後にきゅっと視点の先に見えてくる「富有柿たち」。
さぞツヤのある見事な柿だったんだろうな、と読んでいる側も想像してしまう。読者がおもわず歌のなかのシーンを「想像してしまう」のも、一首のもつ力でしょう。
二首目の「ひかり」から「燕」へと認識が変わるまでのスピーディーな描写。流れにのって飛んでくる燕の姿を、やはり読みながら思い描くのです。
まとめ
疲れとか寂しさなど、負の感情もたくさん抱えているはずですが、全体のトーンは明るく、どこかにユーモアがあるのが、小島ゆかりさんの短歌の強さだと思います。
今までの歌集をもう一度読み返して、その強さみたいな部分をもう少し探ってみたいと思っています。