室温に戻して塗る時かの夏の憎しみに似るバターの手応え
三井修「木沓」『海図』P74
同じ歌集に同一のモチーフやアイテムを詠んだ歌が登場することがあります。同じ作者なので、ときにはそういうこともありますよね。
『海図』を読んでいて気になった歌は、「バター」に関わる歌。
夏の朝バターナイフのふと光り睫毛ほどなる殺意の湧けり
三井修「猫背の大仏」『海図』P182
興味深いのは「バター」や「バターナイフ」を使うときに、憎しみや殺意といったかなり強く攻撃的な感情が湧いていること。
一首目では冷蔵庫から出して、室温に戻して柔らかくしてから使うとき。その柔らかいバターの質感が、かつて湧いた憎しみを引っ張り出す。すでに柔らかくなっているバターの滑らかな感じが、憎しみというどろっとした感情につながるのか。
感情のきっかけがミルクのような液体ではサラッとしていて違うし、クッキーとか煎餅とか菓子類でも違うし、やっぱり「バター」だな、と思うのです。
重量や濃厚さがあり、温度によってぐにゃっと柔らかくなるあの感じが、ずしっと重たい感情に合うのかもしれません。
二首目では、バターをすくうバターナイフの光から、「睫毛ほどなる殺意」が出てくる。小さな光から導かれるのが「睫毛ほど」という分量であることにも納得がいく。
自らのなかから湧いてくる強い感情。外に出すことは無いよう、抑えるとは思うのですが、存在は否定できない。
バターの存在感を思いつつ読んだ一首です。