今回は真中朋久氏の第二歌集「エウラキロン」を取り上げてみます。
自然を見る・書きとめる
くれなゐの八重のさくらの過剰とも思ひき遠ざけしままに過ぎたり P10
あわただしく移る季節は窓のそとつながつたまますこし眠つた P145
浅きみづに背をひからせて真鯉ありき朝のことなれどこのくらき溝の P161
もう、しばらく包丁を研いでゐなかつた玉葱を切るやうに降る雨 P166
一首目にでてくる八重桜はたしかにすこし目立ちすぎるようなイメージがあります。
華美な部分からは遠ざかったまま通り過ぎようとする心理が表れているし、なんとなくそういう人柄なのかな、とも思います。
二首目の「移る季節」は単なる自然現象だけでなくて、自己をとりまくあらゆる出来事をさしているのかもしれません。
せわしない変化とは窓いちまいの隔たりがあるけれど、それでも「つながつたまま」わずかな睡眠をとっているところで、外の世界とどうやっても関係を絶てないことがじわりと伝わります。
三首目は「朝のことなれどこのくらき溝の」の下の句の字余りや倒置も手伝って、朝見た光景ををずるずると引っ張っている感じです。少しずつ情報を出していって、見たものの全体を提示してくる。
四首目が仮に「しばらく研いでゐなかつた包丁で玉葱を切るやうに降る雨」としたらある意味わかりやすいけど、元の歌のちょっと混乱した感覚が消えてしまう。
初句の「もう、」というひと区切りのつけ方が印象的。とても面白い味わいのある歌だと思います。
成長していく子供と家族の歌
ひとのはなし聞いてゐないとなじられて父と息子とひと括りなる P22
子がこゑに読むをし聞けばかな多きわが恋歌の下書きなりき P43
ゑのころを見るたびに摘むをみなごの父なれば手にゑのころ五本 P48
家族を詠んだ歌も素朴なものが多いです。ありありと描写されているシーンが浮かびます。だんだんお子さんが成長している様子もうかがえて可愛らしい。
一首目の「父と息子とひと括りなる」でいっしょくたに叱られている様子だろうと思います。叱っているのは奥さんかな、と思ったのですが、どうでしょうね。
二首目で子供が読んでいるのが「わが恋歌の下書き」とは、聞こえてくるとちょっと焦りそうなシーンです。
「かな多き」がとてもいい。かなが多いから小さい子でも読めてしまうんだな、とわかって、なんだかほほえましい。
三首目は娘さんが摘んでいくえのころ草を、父親である主体が手に持っているのでしょう。
「見るたびに摘む」という具体的な動作や「ゑのころ五本」の数の使い方で、そのシーンが浮かびます。
イメージと感情
すみわたる秋の空気に触れてゐて月は裸体の肩のごとしも P70
考へもなく揺れてゐる葦でありわれはその根の泥とも思ふ P127
きみが呼んだやうな気がして席をたつこのまま消えていつてはならぬ P153
「裸体の肩」のように見える月は下弦の月か、ふくらみつつある上弦の月かもしれません。澄んでいる秋の夜空との組み合わせがとても美しいです。
「人間は考える葦である」とはあまりに有名な言葉ですが、それをふまえた二首目は、どうにも苦いイメージが出ています。
「考へもなく揺れてゐる葦」は周りの人のことかと思ったのですが、自分のことは「その根の泥」という指摘で、他者のことを笑えない自分のありさまを冷静に見ていると思うのです。
三首目の「きみ」は一体どうなったのか。「このまま消えていつてはならぬ」という強いよびかけで、切羽詰まった感じが伝わります。
全体として静かな歌が多い中に、強い感情が出た歌が置かれていると、より印象が強まるようです。静かさのなかに激しい面があって、はっとします。
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淡々とした生活の歌が多いようですが、些細な点を捉える眼力がやはり鋭い。わたしは好きなタイプの歌だなと思います。