今回は真中朋久氏の第三歌集『重力』を取り上げてみます。やや重めな内容の歌も多いのですが、読み応えのある歌集だな、という印象です。
実直さがでている歌
直言をせぬは蔑するに近きこととかつて思ひき今もしか思ふ P9
若きゆゑのみに言ひたることならずふかくかなしみてふたたびを言ふ P9
諦念のむしろあまやかにふくらんで午後の酸素は吸ひがたきなり P21
やがて来る沈黙のまへの饒舌かその年のきみのレポートの物量 *物量=かさ P57
病むといふことをみだりに喩にもちひ病深かりし修辞と思ふ P24
一首目と二首目は続けて置かれています。性格が出ているのかもしれないと思います。言いにくいことを「直言」するのはけっこう大変な場合があるのですが、相手のことを思ってあえて言わなければならないこともあります。
「かつて思ひき」の過去の気持ち、「今もしか思ふ」さらに強調されている現在の気持ち。「ふかくかなしみてふたたびを言ふ」と、逡巡しつつも発言するところも、他者と向き合うときの姿勢がでています。
三首目では、「諦念」がふくらんでくるのに伴って「午後の酸素は吸ひがたきなり」。「むしろあまやかに」が不思議なところです。果実が腐っていくとき、甘い匂いをはなつ様子にイメージが重なりました。
四首目では、やってきた「沈黙」の前に提出されていた「レポートの物量」の意味を見抜いています。静かだけれど鋭い視点があります。
五首目は短歌を詠むひとなら、ちょっとどきっとするような内容です。比喩にやたら使われる「病むといふこと」。その用い方にこそ病的な臭いを感じ取っています。
孤独や苦しさがある歌
鶏頭の花とりどりのかたちにてあるものはふかくひとを拒みゐし P23
ながれぼしを拾ひにゆくと言ひ置きて夜道を線路まで来ました P40
山はいま緑の炎につつまれてくるしき季に入りゆかむとす P46
しどけなく白木蓮の咲いてゐる春のゆふぐれはくるしくてならぬ P87
うねうねとした不思議な形の花を咲かせる鶏頭。厚みのあるフリルみたいな形状が、簡単には本心を見せてくれないイメージを思わせたのでしょうか。
二首目はちょっといつもと感じが違うなと思って、目に留まりました。「夜道を線路まで来ました」と、とても素直な文章で結句が終わっているせいでしょう。「ながれぼしを拾ひにゆく」という理由も、なんだかノスタルジック。
三首目は、山が鮮やかな緑におおわれていく季節を詠んでいると思うのですが「くるしき季」は、その風景というより心情だと思いました。
四首目の無造作でだらしのない白木蓮の様子と、自己の様子がダブって見えます。「くるしくてならぬ」というしぼり出すような言い方に、抱えた感情の重さがあります。
日常をかきとめた歌
レンズ豆のスープの鍋を火にかけて火にあたりをり火のこゑを聴く P71
くろき傘をひろげて夜を歩むとき明日とはすでに昨日のごとし P123
湯煎して膠をとかすゆきひらの小さきなべのうちの淡き湯気 P127
夕陽すこし雲よりもれていちにちの果てのあかるさがわたしをひらく P137
『重力』のなかには、仕事の苦悩や退職に至る経過が詠まれている歌もあるのですが、ちょっとした日常を描いた歌も印象的でした。
一首目のなかに3回出てくる「火」、なんだかほっとするような歌です。「レンズ豆」という具体的でかわいい形状の豆の使い方が効果的です。「火のこゑを聴く」という結句により、静かな状況が浮かび上がってきます。
「明日とはすでに昨日のごとし」とは時間が巻き戻っていくような感じがあります。明るいイメージはなくて、延々と過ぎた時間が先にも広がっているだけのような日々をとらえていると読みました。
接着剤になる「膠(にかわ)」を湯煎して溶かしているシーンは、私には珍しい印象があります。「ゆきひらの」「小さき」「淡き」の「き」の音がリズミカルな印象を作っています。「ゆきひらの」は行平鍋なのでしょうけど、ひらがなのやわらかな感じがあたたかです。
四首目の「わたしをひらく」までの長い夕暮れの光景の描写が美しい。四句、五句のひらがなの多用にも、閉塞した状況から見えてくる解放感を感じるのです。
感情のバランスに注目した一冊
『重力』では、組織の中で働き続ける大変さ、転職の決断など、全体に漂う重たい感情が印象的。その一方で、日常のちょっとした気づきや、植物などの観察が混在していて、一冊の中でのバランスに優れていると思います。
しばらくずっと真中さんの歌集を読んできました。最近もまた新しい歌集が出ているので、その前に過去の作品を読んでおきたかったのです。
第四歌集、第五歌集を読んでから、また過去の作品を改めて振り返るのも楽しみです。