波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2018年12月号

今年の最後の塔がきました。

12月号の月集と、作品1のなかから、ちょっとだけ評をしてみます。

 

ちなみに今年の私の詠草ですが、塔1月号と12月号で新樹集に掲載されていました。

最初と最後で、なんかまとまり(?)がいい・・・。ありがとうございました。

 

言わねども死を待ちており庭の木につくつくおーし尾を伸ばす声

 

焼かれたる器のようにしろじろと並べりこれが母と言われて

          吉川 宏志     P4

母親を看取るために故郷へ向かった一連がありました。病気でもう長くない、とわかっている人のそばにいることは、すなわち死を待つこと。もちろん、口に出しては言わないけど、内心ではわかっている。

 

庭から蝉の声が聞こえてくる。「つくつくおーし」と最後を伸ばす音がやけに耳に残ったのでしょう。母親という身近な存在の最期の時間に立ち会っているという気持ち、重なって聞こえる蝉の声といった場面が、あざやかに浮かんできます。

 

「つくつくおーし」という蝉の声を四句目に置いたことで、緊迫しているシーンに、夏のいつもの音が加わって、家の中と外の空気の重なりがあります。

 

二首目は、火葬後にお骨を前にしているシーンでしょう。生きていた母の姿と、お骨になった現実とは、すぐにはマッチしないでしょう。呆然としている感覚を表現しています。

 

注目したのは「並べり」と「これが母と言われて」です。

 

「並べり」という自動詞を使っていることで、並べられた、という受け身な存在から抜け出して、今、目の前にひとつひとつ白い器みたいに存在している感があります。

 

また、「これが母と言われて」では、そう言われてもすぐには受け入れられない感じがあります。

 

12月号の「青蝉通信」でも、お母さんのために郷里に帰ったエピソードが書かれていました。とても胸を打つ文章だったと思います。

 

子の吹きしなかなか割れぬ石鹸玉見ているうちに子はいなくなり     北辻 千展 (「辻」は点ひとつのしんにょう)   P26

ふわふわと空気にうかぶ、軽い存在感の石鹸玉。でも、つい見てしまうものです。

 

意外に長い時間、割れずに浮かんでいたのだけれど、いつのまにか作り出した子供のほうがいなくなってしまった。

 

石鹸玉というとても儚いものと、それよりはずっと長い時間を生きるだろう子ども。いっときのものとして作られた石鹸玉と、息を吹き込むことによって石鹸玉を作り出した子ども。意外と長く浮かんでいる石鹸玉と、いつのまにか他所にいってしまった子ども。

 

そんなに長い時間ではないはずの出来事のなかに、石鹸玉と子、そして見ている作中主体の時間が存在していて、それぞれの儚さがあります。

 

お互いをゆるせぬままでも行ける場所きらめく水の水族館は      大森 静佳   P26

前からいっしょに水族館に行く予定があったのに、行く直前に相手とケンカでもしたのかな、というイメージを思って読みました。

 

こころのなかで相手に対してわだかまりがあっても、水族館という場所には行ける。そこは水がきらめいて、たゆたう場所。

 

水という身近なもので空間を作っているが、水族館は非日常といった空間になる。

 

ふつうの暮らしのなかでは見ることのできない生き物がいる場所で、たくさんの水に囲まれて、そのあと、気持ちはどうなったのだろう。

 

短歌の内容のその後を思わせる余韻があって、惹かれる歌です。

 

蒸しパンに沈むレーズン、生きにくさをひけらかさずに生きたいのだが    沼尻 つた子    P87

「生きにくさ」は多かれ少なかれ、たいていの人が感じている気持ちではある。でも「生きにくさ」をわざわざ、ひけらかして生きるかどうか、は別の話。

 

この歌の作中主体は、「ひけらかさずに生きたい」と思っている人。ただ、そのあとに「だが」という逆接が続きます。

 

実際には「生きにくさ」を見せることで、周囲の共感や関心を呼べることが多々あります。場合によっては、同情を引くこともできるでしょう。

 

また「生きにくさ」を見せることを、周囲のひとたちが、ほぼ強いてくるような空気さえ、あるかもしれない。

 

「生きにくさ」を見せることも見せないことも、どちらも息苦しい。

 

「蒸しパンに沈むレーズン、」と初句と二句で具体的な物が示されています。

 

白っぽい蒸しパンの底に点在する黒っぽいレーズン。どうしても存在する「生きにくさ」を物のイメージで提示しつつ、「ひけらかす」という行為への疑問につなげています。

 

サラダスピナーにレタスの水を切りながら過去とは遠い一点ではない     小川 和恵   P92

サラダスピナーでレタスの水を切っているシーンです。

 

サラダスピナーはザルの入ったボウルに蓋がついていて、蓋についているノブを回すことで、遠心力によって野菜の水を切ることができるアイテムです。

 

ふんわり軽いレタスの水を切りながら、作中主体の思いは、かつての過去の時間に及んでいる。

 

過去は、ある程度の時間の流れのひとまとまりであって、しかも現在につながっています。単なる「遠い一点」ではないことを今さらに実感しているのでしょう。

 

レタスからさっと水を切るように、自分の過去を振り切ることは、とうていできない。

 

手元にあるサラダスピナーというアイテムと、目に見えるわけでもない自身の過去と、対比させつつ日常のなかの思索を詠んでいます。