波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2017年12月号 2

地の中の六年が蝉のほんとうの命とおもう 階段を拭く    沼尻 つた子   P28

蝉は地上にいる時間よりも

地中にいる時間のほうがずっと長いことは有名ですね。

まぁ、蝉の種類によって地中にいる期間の長さはまちまちのようですが。

この歌では、人目につかずに土のなかにいる時間のほうが

「ほんとうの命」としてとらえられています。

土のなかで木の栄養などを吸いながらじっくりと育つ蝉。

けっして誰が見ているわけでもない時間のほうに価値を見出しています。

結句で急に「階段を拭く」という日常の動作に飛躍しています。

結句は関係がないようでありながら、

つつましやかな暮らしへの感慨があると思うのです。

友人と撃ち合うようにお互いの写真を撮りて旅を終えたり     北辻 千展   P29

旅の記念に、たぶんスマホでお互いの写真を撮ったのでしょう。

親しい友人との楽しい一コマのはずですが

「友人と撃ち合うように」という比喩にちょっと不穏な雰囲気があります。

タイミングが旅の終焉であることもあって

これっきりで終わる感じを内包しているかのようです。

ほほゑみがほほゑみのままに拒絶なり夜勤明けの男微笑む    久保 茂樹    P33

顔は微笑んでいるにもかかわらず

実は拒絶していることを主体は知っています。

「夜勤明けの男」が誰であるのか分からないけど、

微笑みの奥にある拒絶に怖さを感じます。

「ほほゑみがほほゑみのままに」という柔らかい表現と

冷たい内容にはギャップがあって、

その差が迫力を生んでいます。

鮎好きな母は許してくれるだろう初盆の間に馬瀬川へ行く    加藤 武朗    P83

お母さんが亡くなって初めて迎える初盆。

やるべきこともいろいろあるのでしょうけど、

馬瀬川へ鮎釣りに行くという。

多少は後ろめたい気持ちもあるかもしれないけど

「鮎好きな母は許してくれるだろう」という表現に

故人との思い出をいつくしんでいるように思います。

ゆうぞらに交差している電線の、夏と呼ぶには遠き横顔     白水 ま衣    P85

三句目で「の、」を使う歌は

短歌らしい構文のひとつですが、けっこう難しいんですよ。

この歌では上の句で夕暮れの空を分割するような電線の具合を詠み、

下の句ではだれかの横顔につなげています。

もしかしたらその横顔の主を

喩えとして夏と呼びたいのかもしれないけど、できないのかもしれない。

もどかしい感覚を思わせます。

身めぐりに消臭剤を吹きつけて断ちたきもののひとつか母は   澄田 広枝    P90

消臭剤をサーッと吹きかけて

いっそ母との関係を断ちたいと考えてしまう、という気持ちに向きあっています。

臭いという身体にまとわりつくものをイメージさせることで

断ちがたいことが伺えます。

日常の動作から、内心にため込んできただろう思いへつなげていて

すこし驚きます。

でも家族との関係って、きれいなだけではすまないことも少なくなくて

結句の倒置がとても重く響きます。