吉川宏志さんの歌集を順次取り上げていってみましょう。
今回とりあげる『吉川宏志集』には『青蝉』と『夜光』の抄が入っています。
おもに第一歌集である『青蝉』から取り上げてみます。
(『青蝉』の蝉の文字が旧字なので代用しています。)
ささやかな発見
円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる P16
夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること P19
黒き鯉逃げて薄まる水ありき少年期より友の少なさ P32
一首目は縁日の金魚すくいの歌。「掬われしのち金魚は濡れる」という把握が衝撃的だったと記憶しています。
水の中にいるときよりも、掬われてから薄い和紙の上にいるほうが、金魚は濡れている、ということをはっきり認識します。でもこの把握はなかなか出てこない。
二首目は毎日のようにみる街の夕景。暗くなってからだんだんと灯がともる窓が増えていく光景を詠んでいます。「夕闇にわずか遅れて」という把握も言われるとごもっとも、でもなかなかこうは気づかない。
三首目は池を見ていて鯉が泳いで離れていった様子。黒い鯉がすーっといなくなったことで水の透明さがわかる様子を、「薄まる水ありき」という水の濃淡に転化している表現が的確で詩的。
下の句の「少年期より友の少なさ」という事実が描かれることで、逃げて行った黒い鯉の様子が、集団のなかの人間関係のあり様と呼応します。
繊細な相聞歌
あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ P8
風を浴びきりきり舞いの曼珠沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ P20
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった P51
相聞歌には、淡い情感や繊細な感覚がうかがえます。
一首目は「あさがおが朝を選んで咲くほどの出会い」という表現で、出会いの繊細さや不思議さを伝えています。
二首目はよく引用される歌。上の句の曼珠沙華の様子と、下の句の感情の激しさという心理・情感の組み合わせが一首のなかで機能しています。
三首目は初々しい決意がうかがえる歌。恋人と並んで歩いている道に沿って植えられていた花水木。
花水木が「ちょうどあの長さだったからこそ、気持ちを告げることができた」という出来事を、わざわざ仮定によって描く。直接的な描き方より、想像する余地があります。
「あれより長くても短くても」と表現されることで、気持ちを伝えるときの緊張とか決意が読んでいる側にも伝わります。
全体的に淡い印象があるけど、描きかたがとても的確で、繊細な感覚を支えています。
暴かれる自分
隠すのは秘めることより苦いかな銀杏の樹皮をぬらしゆく雨 P59
画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ P67
へらへらと父になりたり砂利道の月見草から蛾が飛びたちぬ P70
「隠す」と「秘める」の違いは分かるようで、なんとも言い難い。「隠す」はすでにあるものをどこかにしまうこと、「秘める」は最初から表に出さないまましまいこむこと、とか考えたけど。
「隠す」ほうが、なんとなく後ろめたさや背徳感が高い気がします。「銀杏の樹皮」を濡らしていく雨の描写にうつることで、隠していることを暴かれそうな危うさを感じます。
比喩の巧みさが読みどころになっている歌が多いです。「画家が絵を手放すように」は画家が絵を仕上げてもう自分だけのものではなく、誰か見てくれる人のものになった、ということだと思います。
絵が売れた、ということも考えたのですが、それよりも他者の鑑賞にさらされる、という考え方のほうが私はいいな。
売れようと売れまいと、自分一人のものだった絵が他者の目に見られる形でまた価値や意味が変わっていく、ととらえました。なにかが切り替わっていく季節である春の暮れ方、主体は坂を上っていきます。
三首目では、結婚して若くして父親になったけど、なんだか実感がわかなかったのでしょう。
「へらへらと」という頼りない表現でわかる、父親になった現実のおぼつかなさ。
可憐な「月見草」から飛びたつ「蛾」。蝶ではなくて「蛾」というところに選択の面白さを感じます。なんだか異質なもののはじまり、といったイメージを受け取りました。
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かなり前に、集中的に吉川さんの歌集を読んでいた時期がありました。「微細な点までよく見える人だな」と思っていました。
普通は見過ごしそうな感覚を巧みに詠んでいます。
感覚の繊細さを、鋭い観察眼と的確な描写が支えている、というのが全体を見た時の印象です。
もう何度も読んでいる歌集なのに、読むたびに巧さにびっくりする歌集。
たぶんこれからも何度も読んで、そのたびになにかしら気づくことがあるだろうと思っていて、そんな1冊が嬉しいのです。