波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

塔2017年10月号 4

萎れゆくことと閉じゆくことの差異、朝顔の花は昼をゆれつつ   中田 明子  P114

日没の10時間後くらいには開花する朝顔

そして、日中の暑さによって水分をとられてしぼんでいきます。

朝顔のフォルムの変化に萎れることと、閉じることの差異を

感じている主体。

上の句が少し理屈っぽいかな、とは思いますが、

下の句に柔らかさがあっていいなと思います。

「昼をゆれつつ」で昼という時間帯の長さや

広がりがあって、「昼にゆれつつ」よりいい。

また「ゆれつつ」で「ゆれる」より動きがあります。

手袋をくるつと引つくりかへすやうに私のゐなくなる日も来なむ      加茂 直樹    P114

「来なむ」の意味は二つを考えました。

「来」の未然形+願望を表す「なむ」で

「来てほしい」という意味。

もうひとつ、「来」の連用形+確述「ぬ」未然形+推量「む」で

「きっと来るだろう」という意味。

毛糸で編まれた手袋をひっくり返す仕草、

なんだか懐かしいな、と思いました。

本来は手を覆う側である内側をくるっとひっくり返すということは

いつも見えていた外側が隠れるということ。

そのようにいつか自分自身がいなくなる。

さりげない仕草から、いつか来る日を導いています。

あばら骨の浮きたるダルメシアンが行くこの世の水を搬び出すごと   福西 直美     P115

誰かに飼われていただろうダルメシアンが、

いまやせ衰えて「あばら骨の浮きたる」ほどだと言う。

その痛ましい姿を「この世の水を搬び出すごと」とすることで

とても重々しい雰囲気が伝わっています。

なにかこう最後の役目、みたいな感じがして

やせこけた犬と水の重さが、読んだあとに印象に残ります。

死ぬのかと思う職場を出た後の透明さにて街を歩けば    田宮 智美     P126

いきなり初句、二句で「死ぬのかと思う」とくるので

ぎょとするけど、そのあとがなんだか悲しい。

一日中、職場で働いて、そのあとには「透明さ」があるという。

そのまま死ぬんじゃないかという気持ち、

充実感とか達成感にはほど遠い感情です。

「思う/職場を」と二句の途中で句割れしている点も

緊張感のある作りになっています。

細き雨に百花ほど咲くクチナシの言いたいことならいくらでもオレは    大野 檜 P133

「細き雨に百花ほど咲くクチナシの」は

下の句を導くための序詞かな、と思います。

たくさんの花をつけて咲いているクチナシ

その名前とは対照的に

主体には言いたいことがたくさんあるみたい。

細い雨、たくさんの白いクチナシ、といった景色と

言いたいことがあるのに言えない、

なにかもどかしい心情とが対比されています。

いいさしで終わる点も、言いたいことがあるけれど‥

という雰囲気を伝えます。

ひとつづつさくらんぼに種 ひとりづつひとは向き合ふ種のをはりに    栗山 洋子  P143

採用されている8首を見ていると、

どうも近所の人からさくらんぼを摘ませてもらったらしい。

それも喜び勇んで、という感じではない。同じ一連に

摘む家族ゐなくなりたるさくらんぼ摘ませてもらふのも「ボランティア」  栗山 洋子

といった歌もあります。

さくらんぼを植えた人は、本当は自分の子供や孫に摘んでほしくて

植えたのだろう、と思います。

でもいま、なんらかの事情で家族がいなくなり

主体が代わりに実ったさくらんぼを摘んでいる。

その状況を踏まえて今回の歌を読むと

単にさくらんぼを食べて、その種を見ているのみならず

家族といった単位の終わりに向きあっている、といった風にも読めるのです。

コートからはみだす足がこいでいる春のつめたい風をまわして    吉岡 昌俊    P157

たぶん主体が、自転車をこぐ人を見かけたのでしょう。

まだ寒い3月の光景かな、と思います。

コートからはみだす足のペダルを踏む躍動感、

その周りで動く春の空気、

確実に変わっていく季節のなかで

勢いのある歌になっています。