波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

真中朋久『雨裂』

最近、真中さんの歌集をずっと読んでいました。今回は第一歌集『雨裂』を取り上げてみます。

 

真中さんは気象予報士として働いていたそうで、短歌のなかに気象用語や天候にまつわる発想がでてくるのが面白く、また印象深いものが多かったです。

 

実際の仕事の経験に裏打ちされた細かい描写が的確で、歌のリアリティを支えています。

 

気象についての歌

朝より思ひ出せぬことひとつあり微雨すぎてのち匂ひたつ土

海溝のふかきところに淡あはと降るもののひとつとして黄砂も

研究者になるまいなどと思ひゐしかのあつき日々黒き向日葵

午後三時県境に雲影あらはれて丹波太郎は今生まれたる    *雲影=エコー

 

冒頭の一連、「丹波太郎」にはとてもいい歌が多かったと思います。

 

丹波太郎」とは雷雲の名称だそうですが、民話のなかの登場人物みたいな名前。

 

雲にそんな名前があるんだなぁ、と思いつつその名称に込められた親しみとかあたたかさが歌を柔らかいものにしています。

 

気象にからんだ仕事をしている人が用いる「微雨」や「黄砂」に、その語が選ばれる重さを感じるのも、詠んだ人の力量ゆえかもしれません。

 

明日は雨と書きいだしつつ概況は恋文のやうに滞りをり

子の旋毛のやうだと思ひもう一度細線にかへて台風を描く

逢ひにくるやうに毎月ここに来て野末の測器の撥条を巻く
 

 

天気予報を準備するときに手が止まったのを「恋文のやうに滞りをり」としたり、台風のフォルムが「子の旋毛のやうだと思ひ」と表現したりするところ、的確でしかも実感を伴う比喩です。

 

仕事の最中なんだけど、歌人としての感覚が混ざる瞬間が、とてもいい歌を生んでいます。

 

毎月定期的にチェックしている計測器のある場所にやってくる仕事を「逢ひにくるやうに毎月ここに来て」には詩的な美しさがあります。

繊細な感覚のいきる歌

敷石のつぎ目つぎ目に揺られゐる影ひきて夕暮のこころは

冬の窓のひかり集めてひもときぬ借りて来し本のなかに花びら

鶸のこゑ聴きしは昼のすこしまへ恋に愉悦があるなんて嘘

オクターヴ下げてちひさく呼びかはしみぞれのやうな恋をせしかな 

 

骨太な歌が多いなか、ちょっとしっとりした雰囲気の歌が目に留まりました。

 

長い影をわずかに屈折させているだろう「敷石のつぎ目つぎ目に」といった具体的な描写が印象的。夕暮れどきのすこし憂いや疲れのある心を、具体的に目にしている感じがします。

 

二首目も美しい。窓際で本を開いたら、ずっと挟まっていただろう「花びら」に気づく。「ひかり集めて」に繊細な視点があります。

 

三首目にでてくる「鶸(ひわ)」は小さくて、きれいな声をもつ鳥ですね。その美しい鳥の声と、「恋に愉悦があるなんて嘘」という断言の組み合わせが、現実の恋を知る前と知った後の落差を描いているように思いました。

家族の歌

いくたびか死を拒みたるいもうとのその冬の日の窓の日ざしを

七年は父母の寝室に置かれありしまこと小さき弟の骨

臓を抜かれたる樹をとりまいててんでばらばらに射干咲きゐたり     *臓=はらわた

わが書架の寺田寅彦全集を嘉しやまざりきガス検査技師

しりぞくといふさびしさにありたるを春のひかりがよぎりゆきしのみ

 

妹や弟の姿がたまに出てくるのですが、悲しい思い出として出てきます。

 

一首目のi音のなめらかな音の終わりに、いいかけの形のままの結句が切なく余韻があります。

 

二首目の「七年」や「まこと小さき」といった描写に、直接は語られない物語を感じて立ちどまりました。

   *

全体的に簡潔で実直な歌が多かったな、と思う一方で、その後の歌集を続けて読んでいくうちに出てくる変化もまた追ってみたいと思います。