波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

一首評「銃」

使はなかつた銃をかへしにゆくやうな雨の日木蓮の下をくぐりて

鈴木加成太「千年の雨 二〇二〇年~二〇二二年」『うすがみの銀河』P109

そろそろ木蓮の季節です。とても好きな花です。

 

つかわなかった/じゅうをかえしに/いくような/あめのひもくれんの/したをくぐりて

 

私なら、読むときには 7/7/5/9/7とします。4句目にかなりの字余り。だいぶゆったりした感覚で読みました。

 

「使わなかつた銃をかへしにゆく」とは面白い比喩です。使用するつもりで借りたはずの「銃」。武器なので、戦闘で使用するか少なくとも動物を狙って撃つか、くらいの目的があったはずです。

 

結局使わなかったので、当然返しに行く。なんだか無駄なことを頼んでしまった、でも銃を使わなくて済んで、案外ほっとしているのかもしれません。

 

そんな中途半端な感覚で降る雨、と取りました。春の暖かい雨。もしかしたら、少しぬるい感じすらあるかもしれません。

 

微妙な温度の雨の日。木蓮の下を静かに進んでいく。ゆっくりと春の時間の進み具合を歩むようです。

 

一首評「葦」

葦原の葦に雨ふる夕暮れをうつくしいと思ふだらうよごれても

澤村斉美『galley』「葦に雨ふる」P162

「葦原」「葦」「雨」のア音、「夕暮れ」「うつくしい」のウ音が、なめらかなつながりを生んでいます。

 

「葦原の葦に雨ふる夕暮れ」たしかにきれいな光景だろうと思いながら、読んでいきます。結句までくると「よごれても」という言葉が登場します。

 

上の句が定型でなめらかであるのに、下の句では、破調。

 

個人差があるはずですが、私なら、読むときには「うつくしいとおもうだろう/よごれても」と、12音で少し止めてから、最後の5音を読みます。

 

この歌は、「葦に雨ふる」という一連の中にあり、タイトルになった一首です。内容は2011年の東日本大震災のあと、節電が始まった頃のこと。

 

雨という天候にも、原発放射能を気にせざるを得ない。「よごれても」は、とても重たい五文字なのです。

 

震災の前と後で、違ってしまったことの数々。それでも、雨の光景を「うつくしいと思ふだらう」。やはり、そう思ってしまうだろう。

 

災害のような大きな出来事のあとにも、日々の暮らしは続きます。簡単に終われないそれぞれの「生きる」があるから、美しいという気持ちも続きます。

 

一首評「耳」

三耳壺の三つぶの耳冷ゆ亡き人の声聞きゐるはいづれの耳か

 *三耳壺=さんじこ

栗木京子『新しき過去』「チキンラーメン」P32

三耳壺は、細長いひも状の飾りが付いた壺。写真などで見ると、たしかに耳みたいな小さな飾りが三つ、ついています。

 

下の句では壺に付けられた三つの耳のうち、どれかが「亡き人の声」を聞いていると詠まれています。

 

「聞きゐる」の「ゐる」は動作継続の意味があるので、その声は今でも聞こえてくる声なのでしょう。

 

どの耳なのかは分からないけど、確かに聞こえているだろう、静かな声。壺についた飾りが、この世の人ではなくなった者の声をしっかり受けとめている、と思うと少し怖い。

 

二句目が字余りで「冷ゆ」の二音が目立つように思います。しんとした寒い空気、静寂のなかに置かれている三耳壺。

 

死者の声を聞いている耳という想像が、厳かにも思えます。

 

 

一首評「飛ぶ」

羽ばたきに息継ぎはあり飛ぶという鳥の驚きかたを愛する

吉澤ゆう子『緑を揺らす』「光る墓光らぬ墓」P49

鳥の羽ばたきは一定の動きではなく、動かし方には緩急があります。動きがゆっくりになったときを「息継ぎ」としているのでしょう。

 

私も鳥の動きを見たことはありますが、鳥の羽ばたきに「息継ぎはあり」という把握に少し驚きました。

 

そして、飛ぶこと自体が「鳥の驚きかた」というのも面白い。下の句まで読むと、何かにびっくりして鳥が舞い上がった瞬間を詠んでいるのかもしれない、と思いました。

 

主体は、そんな鳥を、鳥の飛ぶさまを愛する、と詠みます。

 

短時間の動きのはずですが、見方や把握に面白みがあり、印象に残った歌です。

 

『緑を揺らす』は静かな歌集で、仰々しいところはありません。こちらもよく耳を傾けないと、繊細な声や音を聞き落としそうな一冊という感じがしました。

一首評「夕雲」

係恋に似たるこころよ夕雲は見つつあゆめば白くなりゆく

 *係恋=けいれん

 *夕雲=ゆふぐも

佐藤佐太郎『帰潮』現代短歌全集第11巻 P361

「係恋」は、「ふかく思いをかけて恋い慕うこと」。そんな心情に似た気持ちを抱えて夕暮れの時間帯を歩いている。

 

夕雲なので、夕陽の色にそまって赤やオレンジ色など暖色系の色味になっているはずと思うのですが、ここでは「白くなりゆく」となっています。その前には「見つつあゆめば」という動作があります。

 

「係恋」とは言わず、「係恋に似たるこころ」というあたりがけっこう微妙な心理です。

 

単純に夕暮れの雲の色を描写しているのではなく、そのときの心理が反映されて、見ている者の眼にはだんだんと「白くなりゆく」なのかな、と思いました。

 

昭和22年(1947年)から始まる歌集の冒頭近くの一首です。戦争の傷跡が生々しい時期にどんな思いだったのか。夕雲の色味としては奇妙な感じもしつつ、立ち止まった一首でした。