波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2017年12月号 4

年内に「塔」12月号の評を全部アップしようと

努力しています・・・・・

なんとか間に合いそうなので

いつもこのくらいのペースでやったらいいんじゃないの、って

自分で思いますね。

母のすすめる法律事務所を断って夕焼けのただ赤かった日に

 

どのようなわが選択も肯定し擦り減っていく実家の土壁    吉田 典   P142

作者は介護職に就いているらしい。

就職にあたっては、もちろん他の可能性もあったのでしょう。

たとえば親がすすめてくれた法律事務所。

わざわざすすめを断ってまで選んだ仕事をしているけど、

いまかつての選択を振り返っています。

介護の現場は大変とよく聞きます。

自ら選んだとはいえ、迷うこともあるんでしょう。

一首目では、かつての決心からその日の空につなげて広がりがあります。

「夕焼けのただ赤かった日に」で終わることで余韻を残しています。

二首目では実家の家族は仕事の選択をどう思っているのか、

あれこれ説明せずに「土壁」に託したところがいいと思います。

昔と変わらずに存在しながら、しかし確実に擦り減っていくという点から

見守る側の心理も見て取れます。

美しい不眠だったね雪の日の乗らない始発を眺めにいった    多田 なの   P145

なかなか眠れず、雪の早朝にそっと外出して

わざわざ乗りもしない始発の電車を眺めに行った。

眠れない苦しみではなくて

普段は出かけない時間に出かけたことや、冬の朝の景色の厳かさを

肯定的に描いていて、しんとした美しさがあります。

きらきらのかたまりだった新人が一人ひとりになってゆく秋   山名 聡美   P171

入社してきたころにはピカピカしていた新人さんたちが

仕事にも組織にも、次第になじんできたのでしょう。

半年ってちょうどそのくらいの時間です。

主体にしてみると、かつての自分の姿もやや重なるわけで、

職場で毎年見られるシーンをさらっと描いています。

ヒマラヤの宿の炉端に一冊の岩波文庫が置かれてありぬ    竹内 真実子  P172

ヒマラヤという非日常の舞台と

「宿の炉端」でたまたま見つけた「一冊の岩波文庫」。

意外なところでなじみ深いものを見つけたときの、ちょっとした驚き。

「宿の炉端」という場所がとてもよくて、

ほんのり温かい感じがします。

かつて日本の旅行者のだれかが置いていったのだろう1冊の本が

同じ国の人間がここにもいたんだ、という接点になっています。

とり戻す本心のありじゃがいもの芽よりも深きところを削る   福西 直美    P187

普段は「本心」を忘れているのか、抑圧しているのか、

たまに自ら引き寄せたり探ったりすることがあるのでしょう。

キッチンでじゃがいもを調理していて、芽の部分を削りますが

その動作に合わせて自らの本心と向き合っています。

「芽よりも深き」という点に鋭さがあります。

日常の小さな仕草のなかから自らの内面へ、

どこか痛ましい感じも漂う歌です。

塔2017年12月号 3

あのひとの失くした部分にちょうどいいオシロイバナのたねをください   小川 ちとせ P97

大事な人の欠落した部分を埋めるために

オシロイバナのたね」というささやかなものを願っています。

丈夫で育てやすい「オシロイバナのたね」を使って

せめて失くした部分を埋めることができるのか。

とても素直な物言いがすっと気持ちに入ってくる歌です。

再びの眠り来らずジーンズの旧りゆくごとき夜明けを眺む    益田 克行   P105

まだ暗いうちに睡眠から覚めてしまって、その後も

ついに眠れずに朝を迎えたのでしょう。

だんだんと夜が明けて空が白んでいく様子を

ジーンズの旧りゆくごとき」という比喩でとらえた点がよくて

ジーンズが色褪せて古くなっていく年月と

しらじらと夜が明けていく時間の流れとが重なります。

ゆうぐれの幟のなす影この夏の日々を取りだすように踏みゆく   中田 明子    P106

どこかの店舗の前でも歩いているのか、

夕ぐれのなかで細長い幟がつくる影がいくつか連なっているのでしょう。

幟の影を踏んで歩いている動作について

「この夏の日々を取りだすように」という比喩が面白く

一歩一歩に重さが備わります。

「影」というたしかに存在していながら、

普段はあんまり強くは意識しないものを踏んでいるという動作によって

すでに過ぎた日々のあれこれをたどる心理へのつながりが興味深いです。

コン・ペイ・トウと唱へて三粒もらひたり赤青黄の金平糖を    有櫛 由之   P110

小粒でイガがあって、見た目も可愛い金平糖

「コン・ペイ・トウ」という表記も可愛らしく、

「ひい、ふう、みい」みたいに数を数えているようにも思えます。

手のひらにのせた小さな金平糖

人間の肌の色と、小さなお菓子のカラフルな色も浮かんできて

楽しい一首です。

水のみを求めし肉の奥に在る愛だけが骨 よく曲がってる    中村 ユキ   P117

とても不思議な一首です。

生き物の体内にある骨に注目してさらに

「愛」に結びつけています。

「肉」は生きていくために欠かせない「水のみを求めし」だけど

体内の「骨」が願っているのは違う、と言いたげのように思うのです。

そのうえ、一字空けのあとの結句で「よく曲がってる」と表現されると

とても屈折していて簡単には叶わない感情の存在が浮かんできます。

死後に観る短編映画の片隅で観たかったものだけを演じる     吉岡 昌俊   P135

こちらも不可思議な雰囲気のある一首です。

「死後に観る短編映画」のその片隅で

同時に「観たかったものだけを演じる」。

生きている間には手に入らないものや叶わないことが

どうしても増えていく。

観たかったこと、演じてみたかった自己などを

死んだあとの空想に託しつつ、小さな世界を立ち上げています。

塔2017年12月号 2

地の中の六年が蝉のほんとうの命とおもう 階段を拭く    沼尻 つた子   P28

蝉は地上にいる時間よりも

地中にいる時間のほうがずっと長いことは有名ですね。

まぁ、蝉の種類によって地中にいる期間の長さはまちまちのようですが。

この歌では、人目につかずに土のなかにいる時間のほうが

「ほんとうの命」としてとらえられています。

土のなかで木の栄養などを吸いながらじっくりと育つ蝉。

けっして誰が見ているわけでもない時間のほうに価値を見出しています。

結句で急に「階段を拭く」という日常の動作に飛躍しています。

結句は関係がないようでありながら、

つつましやかな暮らしへの感慨があると思うのです。

友人と撃ち合うようにお互いの写真を撮りて旅を終えたり     北辻 千展   P29

旅の記念に、たぶんスマホでお互いの写真を撮ったのでしょう。

親しい友人との楽しい一コマのはずですが

「友人と撃ち合うように」という比喩にちょっと不穏な雰囲気があります。

タイミングが旅の終焉であることもあって

これっきりで終わる感じを内包しているかのようです。

ほほゑみがほほゑみのままに拒絶なり夜勤明けの男微笑む    久保 茂樹    P33

顔は微笑んでいるにもかかわらず

実は拒絶していることを主体は知っています。

「夜勤明けの男」が誰であるのか分からないけど、

微笑みの奥にある拒絶に怖さを感じます。

「ほほゑみがほほゑみのままに」という柔らかい表現と

冷たい内容にはギャップがあって、

その差が迫力を生んでいます。

鮎好きな母は許してくれるだろう初盆の間に馬瀬川へ行く    加藤 武朗    P83

お母さんが亡くなって初めて迎える初盆。

やるべきこともいろいろあるのでしょうけど、

馬瀬川へ鮎釣りに行くという。

多少は後ろめたい気持ちもあるかもしれないけど

「鮎好きな母は許してくれるだろう」という表現に

故人との思い出をいつくしんでいるように思います。

ゆうぞらに交差している電線の、夏と呼ぶには遠き横顔     白水 ま衣    P85

三句目で「の、」を使う歌は

短歌らしい構文のひとつですが、けっこう難しいんですよ。

この歌では上の句で夕暮れの空を分割するような電線の具合を詠み、

下の句ではだれかの横顔につなげています。

もしかしたらその横顔の主を

喩えとして夏と呼びたいのかもしれないけど、できないのかもしれない。

もどかしい感覚を思わせます。

身めぐりに消臭剤を吹きつけて断ちたきもののひとつか母は   澄田 広枝    P90

消臭剤をサーッと吹きかけて

いっそ母との関係を断ちたいと考えてしまう、という気持ちに向きあっています。

臭いという身体にまとわりつくものをイメージさせることで

断ちがたいことが伺えます。

日常の動作から、内心にため込んできただろう思いへつなげていて

すこし驚きます。

でも家族との関係って、きれいなだけではすまないことも少なくなくて

結句の倒置がとても重く響きます。

塔2017年12月号 1

今年も最後の12月号が届きました。

1年、きちんと詠草出せてよかった。

塔12月号には松村正直さんの『風のおとうと』の

書評を掲載していただきました。

できる限りの力で書いたので、読んでほしいです。

溜飲を下ぐるがごときもの言ひのこのひとも信を置くにあたはず    真中 朋久 P3

物言いから見えてくる相手の本性。

「このひとも信を置くにあたはず」と割り切った認識から思うのは

もう何度も「このひと」のような人を見てきた、という現実。

相手を見限っていくときの冷静さや

ひりっとした痛みがあります。

箪笥からあじさい色がはみ出して君のネクタイ旅に出たがる  前田 康子  P3

まるで旅行に行きたがるように

箪笥からちょっとはみ出したネクタイ。

あじさい色」という微妙な色合いがよくて

私は淡いブルーから紫を思い浮かべました。

ネクタイというアイテムが身に着ける人の分身のように描かれていて

面白さがあります。

夏雲のひとつひとつの輪郭がきれいだ君が話を終えて   松村 正直    P4

どんな会話が交わされたのかはわからないけど、

聞き終わったあとの心情を雲に託している歌だと思います。

読者に想像させる余地が大きくて、

人によって受け止め方がかなり変わるかもしれません。

夏の雲の輪郭のひとつひとつがきれいに見える、

話をきいたことでよりクリアになってしまう世界。

私はとても大事なんだけど、なにか言いづらいことを

打ち明けられたのかな、と思いました。

言葉のつらなりがとてもなめらかななかで

「きれいだ/君が」という句割れがアクセントになっています。

「文具店うすいゝ」の「ゝ」は身震ひて看板に泣く蝉となりたり    岡部 史  P6

「ゝ」から蝉への発想の飛躍が面白い歌です。

本来は店名の文字のひとつであった「ゝ」から夏の印象的な生き物である蝉へ、

メタモルフォーゼともいえるし、

夏に見た光景が混ざってできている、とも取れます。

似合わなくなってくるのは膝丈か中途半端がすなわち中年    永田 紅  P11

年齢によって似合わなくなる服ってありますよね。

たしかにスカートの丈は女性が悩むポイントかも。

自分自身の年齢や変化を受け入れて

「中途半端がすなわち中年」とさらっと言っているあたり

開きなおった感があります。

いつのどの明かりの下で繰りていし植物図鑑の蚊帳吊草は     山下 泉  P13

かつて手にして頁をめくっていた植物図鑑。

その中に見た蚊帳吊草は、確かにあった少女時代を回想する

きっかけなのでしょう。

蚊帳吊草は田畑などに生えている雑草の一種。

蚊帳はいまではなかなか見ないけど

蚊帳吊草の茎を裂いていくと、蚊帳みたいな形になるらしく

昔の暮らしに根付いた名前です。

大きな植物図鑑も蚊帳もすでに遠くなってしまった現代から

ほのかな思い出を引き寄せるノスタルジックな一首です。

大辻隆弘 『景徳鎮』

結社「未来」の選者である大辻氏の第八歌集。

(大辻氏の「辻」は点ひとつですが、代用しております)

しばらく前からずっと読んでいて

やっとまとまったので公開しておきます。

 ■社会へのまなざし

 大辻氏は数多くの時評や評論も手掛ける論者でもあります。

歌集の前半には、東日本大震災ビン・ラディン殺害について詠んだ歌もあります。

私の少ない知識でこれらの歌を読みとくことはとても難しいのですが、

評論だけでなく、歌の中で自らの思考を

明らかにしておく姿勢は潔い、と思う面もあります。

「生き延びた僕らの使命」などといふ使命を帯びて生くるとは何   

 

グリーフ(grief)は遠く癒えゆく悲苦といふその遠さこそやすらぎなるを

 一首目、二首目は、東日本大震災に関する歌です。

生き残った者と死んだ者とを容赦なしに分けてしまった

震災のその後へのまなざしがあります。

「生き延びた僕らの使命」たしかにこういう言葉を

新聞かなにかで読んだ記憶があります。

あらためて「何」と問われると窮してしまう。

二首目の「とおくいえゆくひく」という「く」の音が

細かいリズムを生んでいます。

「遠さ」に焦点をあてて、

深い悲しみがそうやすやすと癒えないこと、

時間がかかることの意味を詠んでいるのだと思います。

Justice has been doneとし告ぐるその声の沈鬱にして響かふものを

 

受動態にて成されたる正義とは何か分からざるままに夜半を過ぐしつ 

 連作「正義」はウサマ・ビン・ラディン死去の際のニュースについての歌。

ついに殺害されたテロリストですが、どこか腑に落ちない心理がうかがえます。

「受動態にて成されたる正義」を遠くニュースで知る立場にいて、

その正体をつかめない自己を見つめています。

かつて大辻氏は、「未来」の時評(2001.11)で次のように書いていました。

私は、私の言葉が不謹慎な言葉であることを自覚している。

それでも敢えて言おうと思う。

私は、飛行機をビルに突入させたあのテロリストの棄私の精神のありように、

そして、それが厳然とした形をもってそこに屹立していることに、

あの夜、心を震わせてしまっていたのである。 

   「テロリストの背後にあるもの」『大辻隆弘集』 P115

 かつての時評などを踏まえて読むとき、

テロリストが殺害されたからといって

単純に喜ぶわけにもいかない心理がにじんでいて、

殺す側と殺される側の両方に思いを巡らせています。

 受動態とは、主語の省略を宿命的に抱えこんだ文法です。

正義の主格は誰なのかを突き詰めることを忌避してしまう心が、

誰の心の中にもあるのでしょう。

そしてまさに大辻氏は、自身の中にある忌避の心と

向き合おうとしているように感じられました。

 

 ■自然の描写

植物を詠んだ歌に美しい歌が多く、歌集のなかのめぐる季節が描き出されます。 

梨の花の白さが遠くまで届き暮れむとしたる丘陵はあり 

 

かぎりなき遠さを保ちゐるごとく水辺にひらく夕べの合歓は 

 

終りたる花の名残りのくれなゐを臀辺に立てて熟るる柘榴は   *臀辺=しりへ

 一首目では「遠くまで届き」という点がいいな、と思っています。

梨の木が一面に広く植わっているのかな、

広々とした花の色の広がりと夕暮れの色合いとが浮かびます。

 二首目は合歓の花だと思うんですが

淡いピンク色の花が扇状に開いている様子は幻想的。

「かぎりなき遠さを保ちゐるごとく」という比喩によって

ずっとずっと遠いままのなにか、だれかに思いが及びます。

 三首目は柘榴の実が実っていく様子です。

咲き終わった花から実へ移り変わっていく柘榴を色のつながりでとらえています。

「臀辺に立てて」で柘榴の実の丸いフォルムが浮かんできます。

 

■死にむかう父親

午後五時にこの室に来て息を聴くこの日常も旬日を超ゆ     *室=へや

 

 薔薇斑と言はばやさしく薔薇斑のごときが浮かぶ手を撫でてゐる    *薔薇斑=ばらはん

 

 死は可算名詞ではない数ふるを許すことなき無音の広がり 

 

いや死とは常に単数今ここにくたびれ果てて死んでゆく父の

 歌集中で大きな割合を占めているのが、父親の死に関する歌です。

父親がだんだんと弱って死に向かっていく様と、

それを傍で見ている家族の姿勢が詠われています。

近々必ずやってくる死を迎える気持ちと

仕事などの日常が並行して詠まれています。

 

一首目では父親の呼吸音を聞いている、そんな日常が過ぎていくことの重さ。

「旬日」は10日程度で、その微妙な日数が次第になじんでいく事を感じさせます。

 二首目の「薔薇斑」は調べたけどちょっとわからないのです・・。

手に斑点が浮かんできているけれど、

その手の模様をあえて「薔薇斑」と表現することで

父親や自分を慰めているのかもしれない。

 三首目や四首目からは、やすやすと数えることすら許さない死という現実を

間近で見ている主体の視線がうかがえます。

今までの父親との記憶をたどったり、

仕事のスケジュールを調整して父の介護をしたり、

といった回想と現実がないまぜになった状態で歌が続きます。

 歌を詠むことも作者にとっては父の死という現実を迎えて、

そして受け入れていくためのプロセスだったのでしょう。

 

 

一冊全体を通して、とてもたたずまいの美しい歌が多くて

長年をかけて研がれてきた刃物を見ているような厳かさがあります。