波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

一首評 「舌」

ああ、雪 と出す舌にのる古都の夜をせんねんかけて降るきらら片   
             光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』 

 学生時代を過した京都を詠んだ一連のなかの一首です。
「ああ、雪 と出す舌に」となっていて
一字空けがあることですこし間が生まれて
時間の操り方が巧みな初句になっています。
舌という温かさをもつ体内の一部に
空から降ってくる細かな雪が溶ける。
一瞬で溶けてしまう雪と舌の小さな接点に
「せんねんかけて降る」という時間の流れが凝縮されています。
「きらら片」は鉱物の一種ですが、
この歌のなかでは雪のきらきらしたイメージと重ねられています。
それと同時に「せんねんかけて」降り積もる時間の蓄積から
「きらら片」という鉱物のイメージを導いていて
単に儚く消えるだけの存在ではない、という意思も見えます。
また雪が降ってきたときに舌を出してみるという行為は
ちょっと子供っぽい仕草だと思います。
かつてまだ学生のときに過ごした時間を思いだして
あえてしてみた仕草なのか、過去の回想なのか。
主体のなかに積み重なった時間の蓄積まで
思いをはせることも可能だと思います。

光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』

 光森さんの第三歌集。赤い表紙が印象的です。
結婚を機に石垣島に移住した作者。
今までとは違う環境での暮らしや
子供の誕生が歌集全体を通して描かれています。

■沖縄への移住

蝶つがひ郵便受けに錆をればぎぎぎと鳴らし羽ばたかせたり      

みづのなかで聞こえる声は誰の声こぷりと響めばぷこりと返し   *響めば=とよめば 

島そばにふる島胡椒さりしかりさりと小瓶を頷かせつつ

沖縄での一連はとても美しく、楽しい連作です。
郵便受けの「蝶つがひ」というパーツを動かすときに
蝶の羽ばたきをイメージさせる描写。

沖縄の海のなかでの広がりのあるイメージ、
「こぷり」「ぷこり」といった軽快な音も楽しい。

島胡椒を振るときの音を「さりしかりさり」と
「然」の読みを並べた表現に託している
掛詞みたいな工夫。

光森さんの短歌を読んでいると、
描写するときのイメージの飛躍が楽しい歌が多く、
第三歌集でもとても楽しく拝見しました。

■子の誕生まで

生誕の日に寄る者と生誕の日より離りゆく者とを傘は     *離り=かり

あやまたず父となるべし蕪の葉を落としてまろき無を煮込みつつ   

硝子器に喘ぎてやまぬあなたから目を背けたい、から背けない

家族という現実の中の強力な存在が描かれている点が
光森さんの今までの歌集とはだいぶ雰囲気が異なっている点です。
今までは美しいイメージを自在に描いてきた感がありますが
この歌集では、妻そして生まれてくる子供との生活が
詩の言葉で綴られています。

一首目は妻と同じ傘に入っているのでしょう。
だんだんと子の誕生に向かっていく妻と、
自身の誕生日から離れていく夫である主体。
並んで歩いていながら、大きな差異が
一本の傘というアイテムに内包されています。

二首目は漢字の面白さをいかしている歌。
「蕪」という漢字の草冠を取って「無」という漢字にしたことで
「蕪の葉を落と」すという作業を文字で表現していて、興味深い。
やがてやってくる子の誕生を待ちつつ、
「無」を煮込む、という言葉から考えると
なんとなく不気味さ、不可思議な感覚をも感じているようです。

出産は難産だったようで、出産の日を詠んだ連作では
緊迫感のあふれる一連になっています。
その一番最後におかれたのが三首目です。
呼吸が整わない子の様子を見ながら
「目を背けたい、から背けない」という揺らぎや決意を詠んでいます。
読点ですこし間を取りながら否定形で終わることで
滲むような気持ちを表現しています。

■父親としての歌

雨よりもさきに教へるあまがさのあなたが生まれてから苦しいよ   

子に吾の名を教ふるはさびしかり別れのことばを手渡すに似て

日傘からはみ出す吾の透けゆくとき目を見て云ひなさい、さよならは

子供が生まれてからの父親としての歌にも
光森さんらしい視点がいきています。
今回印象に残った歌を見ていて、
お子さんに言葉を教えているシーンが多いな、と思いました。
もちろん、いろんなことを教えていくのですが
ぐんぐんと言葉を吸収していく様子を傍で見ていて、同時に
いつか来る別れを予感しているような内容を含んでいます。

一首目では実際の雨よりも先に
雨傘というアイテムを教えている様子。
二首目では父親である自分の名前を子に教えている様子。
三首目は日光を避ける日傘を指していて、主体が日傘からはみ出すときの様子。

「あなたが生まれてから苦しいよ」
「別れのことばを手渡すに似て」
「目を見て云ひなさい、さよならは」
子供との濃密な時間を過ごしながら、
それがずっと続くものではない、と
確認しているようです。

この歌集のなかでは自分の子供のことを「其のひと」と指していて、
実際の名前も性別も明かさないあたり、
子供を詠んだ他の歌人の歌とはかなり異質な雰囲気も持っています。
わたしにはその意図はわかりかねるのですが
性別といった属性や名前を排することで
特定のイメージが安易に定着するのを避けようとしているのかもしれません。

この歌集のなかでは父親として子供の名前を考える様子が
とても大きなテーマになっていて、
男性が子供の生誕に向きあう一つの姿として
面白い切りとり方になっています。
男性が子供の誕生や育児を詠んでいる作品も
割と多くなった印象がありますが・・・
名を授ける、という行為を通して描写することで
誕生までの時間を咀嚼していく、という心理を
描き得たのではないかと思います。

 

一首評 「楽器」

小夜しぐれやむまでを待つ楽器屋に楽器を鎧ふ闇ならびをり
             光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』

雨宿りをしているのか、楽器屋の前で
過ごしている時間のこと。
楽器屋のなかを見て
楽器ではなく「楽器を鎧ふ闇」に注目するあたり、
感覚の鋭さを思います。
「鎧ふ」という動詞の強さが印象的で
硬質な楽器の周りの空気をつかまえています。
美しい曲線や艶をもつ楽器は
闇によって周りとの覆いを作っている、
静寂だけど鋭いイメージが立ち上がります。

 

一首評 「金貨」

金貨のごときクロークの札受け取りぬトレンチコートを質草として  
             光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』

トレンチコートをクロークに預けるときに
質屋に預ける品物を指す
「質草」とは面白い表現です。
クロークの札が「金貨」を思わせるものだったことからの連想でしょうか。
ツヤツヤとした金貨、でもそれは
なにかと引き換えであるという点に
どこか危うさが潜んでいます。
大事なものを預けつつ質屋で工面する金と、
演奏会で過ごす時間とを重ねている点に
どこか乾いた感覚を感じます。

 

塔2017年4月号 5

ここがもう境界なのだ 花花に埋もれし君のほほえみ固し    佐々木 美由喜      168

初句と二句では何のことかわからないのですが
そのあとでだれか亡くなった人がいるのだ、とわかります。
相手は固いほほえみで花に埋もれている。
生きているものとすでに死んだものとの
決定的な境界の前にたっている時のシーンを
切りとっています。

差し入れたタイツが足のぬくもりになるまでを待って動き出す朝    魚谷 真梨子    169

まだ寒い季節なのでしょう。
タイツを履いた後、足にぬくもりを感じるまで
すこし間があります。
ちょっとした変化ですが
いい着眼点だと思います。
ただ、結句に体言止めで終わっているのですが
効果のほどはいまひとつかな、と思います。

なんとなく視線はづせり我がまへに裸婦が最後の布を取るとき     

白布のうへにしづかに並べられ供物のごとし裸足の指は       岡部 かずみ     170

ヌードデッサンの機会があったでしょう。
モデルさんは仕事なので慣れているけど、
全裸のモデルさんを前に、絵を描く側がどぎまぎすることってありますね。
「最後の布」や「供物のごとし」といった言葉の選択が
スムーズで無理のない運びです。
岡部さんの短歌では、微妙な心の揺らぎやざわつきを
うまく定着させているように思います。

握り飯持たせよときみは来週の暦の端に握り飯描く       川田 果弧       177

息子さんなのか旦那さんなのか、
手軽にすぐ食べられる握り飯を希望してカレンダーに書き込んでいる様子。
「握り飯」というちょっと荒っぽい言葉がいいな、と思います。
「暦の端に」という点もよくて
たぶん週末にどこかでかける必要があるのでしょう。
主体と相手の関係とか
相手の性格とかいろんな要素が浮かんできます。