波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

柏崎 驍二 『北窓集』

 

風ありて雪のおもてをとぶ雪のさりさりと妻が林檎を剥けり  (*剥くで代用)

『北窓集』の巻頭におかれている一首です。
「風ありて雪のおもてをとぶ雪の」が「さりさりと」を導く序詞になっています。
外を舞う雪の様子から、室内で林檎を剥いている様子につなげていて滑らか。
雪の白さや林檎の赤い色など、
色彩の対比もとても美しい一首です。

■岩手の風土から生まれる歌

逃れ得ぬ風土のありてこの川に戻りくる南部鼻曲がり鮭

木綿垂のごとく羽振りて白鳥が一羽行きたり白き冬空  *木綿垂=ゆふしで

草の実も木の実も浄き糧ならず鳥よ瞋りて空に交差せよ   *瞋=いか

岩手県生まれの柏崎氏の歌には
郷里の風土や自然の色合いがとても強く出ています。
まさに「逃れ得ぬ風土」に居続けることで
磨かれた感のある歌が並んでいます。
一首目の「南部鼻曲がり鮭」は自らの、また周囲の人の姿なのでしょう。

二首目もとても美しい描写です。
「木綿垂のごとく羽振りて」がとても的確で白鳥の動きが浮かびます。

三首目は震災後の放射能の影響を詠んでいる歌。
瞋るは、「怒りで目を見張る」という意味。
「鳥よ瞋りて」でかつての自然とは違ってしまった
故郷への悲しみが出ています。

■方言をいかした歌

「荒れはでだ浜の様子だが見どぐべし」我らがつかふ勧誘の「べし」

てんでんこ逃げろど言ふがばあさんを助けべど家さ馳せだ子もゐだ  

沖さ出でながれでつたべ、海山のごどはしかだね、むがすもいまも   *出=で 海山=うみやま

一首目は震災があった後の一首です。 
「べし」という強い響きをもつ助動詞のなかの勧誘の意味。
長年住んでいる者同士の会話としてすごみや強さがあります。

二首目の「てんでんこ逃げろ」は三陸地方に伝わる言葉で
「各自、めいめい逃げろ」という意味になります。
昔からなんども地震津波の被害に遭ってきた地方で、
いざ震災が起こったときに避難するときの知恵として
受け継がれた言葉でしょう。
でもほかの人を助けようとして
家に向かった人ももちろんいるでしょう。
逃げようとするときの厳しい判断や選択、
その瞬間の心理の迷いや揺れを描いていて
痛切な一首になっています。

三首目の「海山のごどはしかだね」という言い方には
やはりその土地に長年暮らした人ならではの
達観があります。大勢の人が流されてきた現実のあとには
こう言うしかない部分もあるのでしょう。

東北の方言をそのままいかして詠まれる歌の素朴さや温かみと
現実の厳しさが迫ってくる時があります。

東日本大震災のときの逃げる様子や
亡くなった方のことを偲ぶ歌も多いです。

交わされた会話をほぼそのまま使うことで
その場で聞いているような感覚に近くなります。

読んでいて思うのは、現場の切羽詰まった感じや
しゃべっている人の体温を伝えているけど
単純な嘆きや恨みではないこと。
なんというかやりきれないような心情とか
昔から暮らしてきたひとの達観とか
複雑な感情が混ざって伝わってきます。

■達観のある歌

骨髄に針打たれをりこの部屋は夏の砂浜のやうにあかるい

幸福とか不幸とかいふ価値観を去らねばならぬ、なあ鷗どり

柏崎氏は2016年4月15日に白血病で他界されました。
一首目は病気の治療中の歌。
「夏の砂浜のやうにあかるい」は室内の様子なのか
心象なのか、さらっと詠んでいるようで
とても厳しい、痛々しい感じがあります。

二首目はとても達観のある歌。
ここまで言い切るのは本当に難しい。
飄々と詠んでいるようで、その裏にある
東北という土地の厳しさを思うと
とても重たい印象が残ります。

      *

土地に根付いた人の強さみたいなものが
ずっと底にあるような歌群です。
これまでにも多くの歌集があるので、
またじっくり読んでいきます。

 

大井学『サンクチュアリ』

大井学さんの第一歌集を取り上げてみましょう。なかなか難しい歌集で、しばらく置いていました。

 

私ではうまく読めない歌もいろいろあるので、読みのうまい人の意見を聞いてみたかったな。

 

大井さんの短歌では、現代の生活をとても冷めた視点で切り取ってくる歌と、ふるさとや自然を見ているときの柔らかい歌との差が大きくて、ちょっとびっくりしました。

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大森 静佳 「サルヒ」

先日、なんとか手に入れた大森さんの「サルヒ」から少しだけ。
今年の夏にモンゴルに行かれたときの写真と短歌で構成されています。
モンゴル語で「風」を意味する「サルヒ」には
大草原の景色が広がっています。

唇もとのオカリナにゆびを集めつつわたしは誰かの風紋でいい  *唇=くち

攻めなければ、感情の丘。この靴をこころのように履きふるしつつ  

この夏を痺れるばかりに遠くして帽子は何の墓なのだろう 

風が通った後にできる美しい風紋。
「誰かの風紋でいい」というさしだすような言い方で
他のものからの影響を受け入れるような覚悟があります。
オカリナ、というとても素朴な楽器を選択している点も魅力的。

二首目は初句から二句がとても面白い一首。
のどかな草原や遠くの丘。
日本とは全く違う空間のなかで
駆り立てられるような気持ちもあったのかもしれない。
足になじんでくたびれていく靴と心の組み合わせに
なんだかしみじみしてしまう。

「サルヒ」に収められている写真は、大きく空と地に二分されています。
本当に見渡す限りの草原と、人と動物たちの暮らし。
数日間の滞在だから、後からみると余計にまばゆいのかもしれない。
「帽子」という頭にかぶるアイテムが
「墓」と結びつくことで、
どうしても遠ざかってしまう記憶を哀惜しているようです。

 

第8回クロストーク短歌

第8回クロストーク短歌に行ってきたので、ちょっと感想をあげておきます。
あくまで私の感想なんで。いろいろ考えていたら長くなった・・・。

今回は「若い世代の歌をどう読むか」ということで
なにかと「わからん」「淡い」とか言われることがある
20代、30代(くらいかな)の作者の歌をどう読むのか、
吉川宏志さんと江戸雪さんのトークで語る会でした。

吉川さんはだれの歌を見るときでも、かなり丁寧に接する方だし、
江戸雪さんもかなり積極的に若い世代のイベントに参加している方だと思います。
このひとたちの視点から見ると、若手の作品ってどう見えるのかな、と思って参加してみました。

私も若手の作品を見ていて、「?」って思うことは多々ありますが
でもまぁ、新しい世代の作品っていつでも
「わからん」と上の世代からは言われるものだしなぁ・・・。

私自身は若手の作品を読んでいて、
内容が何を詠んでいるのかわからないのでもどかしい感じを受けること、
あとはなんとなくわかるけど、読みごたえがなくて、
とても物足りない感じを受けることがしばしばあります。

 

■「若い世代の歌」の2つの流れ

大きく分けて、2つの流れがある、と言われていました。
生きづらさを抱えている人の歌としてあげられるのが
鳥居さんや虫武さんの歌です。
内容がけっこう重かったり暗かったりするんですが
短歌が内面のつらさを受け止めている感じの歌。
生きづらさや閉塞感を抱えている人からの共感は高そうだな、と私は思います。

私が「生きづらさ」を詠んでいる歌を見ていて思うのは、
芸術とか文学が心の支えやよりどころになることはあるので
それ自体はいいことだと思っています。
ただ境遇とか話題のほうが先行しすぎじゃないかな、と思うことはあります。
作品と一緒に生い立ちなどのストーリーがセット販売になっていることへの疑問や、
感動を割り増しさせるための効果がしばしば気になることはあります。

現代の社会のドライな感覚、淡さや甘さを軽く詠むタイプの歌もけっこう多いです。
岡野大嗣さんや木下龍也さん、土岐友浩さんの歌はこちらでしょうね。
淡白な歌ですが、現実を切りとって巧く詠んでいる、と私も思います。
ただ、巧さに感心する一方で
作者は本音ではどう思っているのか、たまに疑問を感じることはあります。
淡いという以上に、選択された言葉に重みや真実味がなさそう、
と思ったことはあります。

 ■ネットの普及による変化

話を聞いていて面白かったのが
「今はネットでなんでも丸見えになっているでしょう。
ネットで買い物していると頼んでもいないのに
他の商品をおすすめされたり・・・。
なんでもだれかに分析されて見られているから
なんだか秘密の部分、わからない部分を残しておきたい、
という気持ちもあるんじゃないかな」っていう吉川さんの台詞ですね。

たしかにいろんなことが「見える化」されてしまって
鬱陶しい部分はあります。
望まなくても情報が溢れて出回っている反面、
そんなにいらんって、っていう気持ちも出てくるのかもしれない。

自覚があってもなくても、生きている時代や社会の影響って
容赦なしに作品に出てきます。
ネットがあるのが当たりまえの状況で育った世代には
自分を世の中にどれだけ、どうやって見せるのか
考えざるを得ないのかもしれない、と私なら思います。

   *

わかる、わからない、という論争は
その点だけで終わってしまうとちょっともったいないかな、とよく思います。
別にわからなくてもいいんだけど
どのあたりがよくて、どのあたりまで読めて
どのあたりがわからないのか
もうちょっと話をする場がいるのかな、と私も思います。

あと世代によって土台になっている知識に差があるので
もう少し短歌について共有できる知識の集積があるといいのだけど・・・。
仮にあっても使えていないのかもしれない。

ネットの普及で短歌を始めるのも
短歌の友達を探すのもだいぶ簡単になったけど
似た者同士を集めるくらいで終わっているのかもしれない、
と感じることがたまにあります。
似た者同士のシンパシーのやり取りで終わって
合わない人の組み合わせだと
あんまり冷静な話し合いにならないのが
残念だな、ってネットを見ていて思うことしばしば。

   *

塔12月号が届いて読んでいたら花山周子さんの
「現代短歌の両義性とは一体なんなのか」が載っていました。
世代間の差に見える短歌の違いが、
近代文学としての短歌と、伝統文芸としての短歌との差異」ではないか、
という指摘や分析が面白い文章でした。
まだ続く文章のようですから、次号を楽しみに待ちます。