波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

第8回クロストーク短歌

第8回クロストーク短歌に行ってきたので、ちょっと感想をあげておきます。
あくまで私の感想なんで。いろいろ考えていたら長くなった・・・。

今回は「若い世代の歌をどう読むか」ということで
なにかと「わからん」「淡い」とか言われることがある
20代、30代(くらいかな)の作者の歌をどう読むのか、
吉川宏志さんと江戸雪さんのトークで語る会でした。

吉川さんはだれの歌を見るときでも、かなり丁寧に接する方だし、
江戸雪さんもかなり積極的に若い世代のイベントに参加している方だと思います。
このひとたちの視点から見ると、若手の作品ってどう見えるのかな、と思って参加してみました。

私も若手の作品を見ていて、「?」って思うことは多々ありますが
でもまぁ、新しい世代の作品っていつでも
「わからん」と上の世代からは言われるものだしなぁ・・・。

私自身は若手の作品を読んでいて、
内容が何を詠んでいるのかわからないのでもどかしい感じを受けること、
あとはなんとなくわかるけど、読みごたえがなくて、
とても物足りない感じを受けることがしばしばあります。

 

■「若い世代の歌」の2つの流れ

大きく分けて、2つの流れがある、と言われていました。
生きづらさを抱えている人の歌としてあげられるのが
鳥居さんや虫武さんの歌です。
内容がけっこう重かったり暗かったりするんですが
短歌が内面のつらさを受け止めている感じの歌。
生きづらさや閉塞感を抱えている人からの共感は高そうだな、と私は思います。

私が「生きづらさ」を詠んでいる歌を見ていて思うのは、
芸術とか文学が心の支えやよりどころになることはあるので
それ自体はいいことだと思っています。
ただ境遇とか話題のほうが先行しすぎじゃないかな、と思うことはあります。
作品と一緒に生い立ちなどのストーリーがセット販売になっていることへの疑問や、
感動を割り増しさせるための効果がしばしば気になることはあります。

現代の社会のドライな感覚、淡さや甘さを軽く詠むタイプの歌もけっこう多いです。
岡野大嗣さんや木下龍也さん、土岐友浩さんの歌はこちらでしょうね。
淡白な歌ですが、現実を切りとって巧く詠んでいる、と私も思います。
ただ、巧さに感心する一方で
作者は本音ではどう思っているのか、たまに疑問を感じることはあります。
淡いという以上に、選択された言葉に重みや真実味がなさそう、
と思ったことはあります。

 ■ネットの普及による変化

話を聞いていて面白かったのが
「今はネットでなんでも丸見えになっているでしょう。
ネットで買い物していると頼んでもいないのに
他の商品をおすすめされたり・・・。
なんでもだれかに分析されて見られているから
なんだか秘密の部分、わからない部分を残しておきたい、
という気持ちもあるんじゃないかな」っていう吉川さんの台詞ですね。

たしかにいろんなことが「見える化」されてしまって
鬱陶しい部分はあります。
望まなくても情報が溢れて出回っている反面、
そんなにいらんって、っていう気持ちも出てくるのかもしれない。

自覚があってもなくても、生きている時代や社会の影響って
容赦なしに作品に出てきます。
ネットがあるのが当たりまえの状況で育った世代には
自分を世の中にどれだけ、どうやって見せるのか
考えざるを得ないのかもしれない、と私なら思います。

   *

わかる、わからない、という論争は
その点だけで終わってしまうとちょっともったいないかな、とよく思います。
別にわからなくてもいいんだけど
どのあたりがよくて、どのあたりまで読めて
どのあたりがわからないのか
もうちょっと話をする場がいるのかな、と私も思います。

あと世代によって土台になっている知識に差があるので
もう少し短歌について共有できる知識の集積があるといいのだけど・・・。
仮にあっても使えていないのかもしれない。

ネットの普及で短歌を始めるのも
短歌の友達を探すのもだいぶ簡単になったけど
似た者同士を集めるくらいで終わっているのかもしれない、
と感じることがたまにあります。
似た者同士のシンパシーのやり取りで終わって
合わない人の組み合わせだと
あんまり冷静な話し合いにならないのが
残念だな、ってネットを見ていて思うことしばしば。

   *

塔12月号が届いて読んでいたら花山周子さんの
「現代短歌の両義性とは一体なんなのか」が載っていました。
世代間の差に見える短歌の違いが、
近代文学としての短歌と、伝統文芸としての短歌との差異」ではないか、
という指摘や分析が面白い文章でした。
まだ続く文章のようですから、次号を楽しみに待ちます。