波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2017年3月号 4

水槽のタイルの目地が揺らぎゐて豆腐屋の手が絹こしをすくふ    清水 良郎   P138

昔ながらの豆腐屋さんで、きぬこし豆腐を買っているところ。
たしかにタイルの水槽になっていたな、と思います。
「タイルの目地が揺らぎゐて」という水のなかの揺れを
丁寧に描いていて、見ている景色を的確に伝えてくれます。

おとがひに湿地のあれば友の待つ夷坦へ行けぬ けさのひげそり      東 勝臣     P140

朝に髭剃りをしているシーンで
あごひげを「湿地」と表現しているのが面白い点です。
「夷坦」はちょっと難しい言葉ですが
平らな土地という意味です。
身だしなみを整えて友人を訪ねるためのプロセスを
土地のイメージに発展させることで
日常のなかに豊かなイメージをもたらしています。

曲がり角だったのだろう山茶花の白が車窓より消えつるときも   横田 竜巳  *車窓=まど   P150

廃止になるバス‌に乗っているときの一連でした。
二句目までの「曲がり角だったのだろう」で興味をひいて
そのあとに見えなくなっていく山茶花を描いている倒置が効果的です。
山茶花の白」という点も細やかな描写です。
「消えつる」は「消ゆ」の連用形+完了の助動詞「つ」の連体形。
「つ」はどちらかというと人間の意志に基づく動作に使うことが多いので、
「消えぬる」の方が適切かもしれません。
あとは「車窓」に「まど」っていうルビはどうかな、とも思います。

キャラメルの箱にしまってふたをしたひと駅ぶんのみじかい眠り    上澄 眠       P153

上澄さんの歌も面白い発想の歌が多いです。
なじみ深い「キャラメルの箱」にしまうのは
「ひと駅ぶんのみじかい眠り」。
「ひと駅ぶん」という描写がよくて
短い時間の表現として
実感がわく描きかたです。

 

塔2017年3月号 3

人参の皮のあたりにある夢がスープのいろを濃くしておりぬ     澤端 節子   P67

スープの中で柔らかくなっている人参、
「皮のあたりにある夢」というとらえ方が面白い。
たぶん皮は剥かれていると思うのだけど
人参に「夢」が残っていてスープの色に
反映されている、というと
ちょっとおろそかに飲めない気がします。

待てばいい花のある部屋は眩しくてもうどんな事にも傷つかない    福田 恭子   P98

「もうどんな事にも傷つかない」は
強くなった、というよりも
すでになにか深いダメージを負ってしまって
感覚がマヒしたせいではないだろうか、と思います。
「もう」という2文字が入っていることで
とても強い決意を感じさせます。
その一方で、「花」といういつかはしおれて枯れていく
存在があることで、その決意の脆さをも感じます。
「待てばいい」では何を、誰を待っているのか
「花のある部屋」がどこなのか
わからないけど近寄りがたい眩しさとの対峙
だと受け取りました。

菊のかたちに花火開きてそのけむり菊のかたちのまま流れゆく     加茂 直樹   P114

花火のかたちが「菊」というと
幾筋もの線状の花火だったのかな、と思います。
この歌のなかでは花火そのものよりも
花火にともなう煙のかたちに
より注目しています。
無常な一瞬を描いています。

町名がここより変はる自転車をよけつつ冬の橋を渡れば     森永 絹子   P125

橋から先は別の名前を持つ町。
「自転車をよけつつ」という実感のある描写がいいな、と思います。
まだ寒い冬の空気のなかを歩いて
別の空間に入っていく途中の描写を
丁寧に描いています。
「橋」というつなぎ目としての場所も面白くて
橋のフォルムと移動の途中にいるというイメージが
合っています。

塔2017年3月号 2

塔3月号の作品1から。

沈黙が答ではないあとすこし言葉澄むまで待つ冬隣      石井 夢津子    P23

沈黙している時間は考えている時間。
「言葉澄むまで待つ」で自己の中の気持ちを
しずかに見つめている主体なのだろう、と思います。
「冬隣」という冬の訪れを感じさせる語も効果的で
空気の澄んでいく様と結びついています。

薄き鬢さむくあらぬか五千円札のをみなに鰤を買ふなり     清水 弘子     P27

「五千円札のをみな」は樋口一葉
短い生涯を終えた一葉の「薄き鬢」への着目が面白い一首です。
手元の五千円札から助詞「に」で
鰤を買うシーンにつなげています。
「に」は「によって」という意味だと思いますが
すこし強引な使い方で
結句の動作に落とし込んでいます。

次次にうどん屋できて客足のしばらく乱れまた治まりぬ      橋本 成子     P30

新店舗がオープンすると、新しい店に行くお客さんが増えるけど、
しばらくするとそれぞれのお気に入りの店が定まって
また客足が落ち着くという期間をコンパクトに収めています。

うつくしく生きる/死ぬ 吾の本名の美の字は線対称に書かれる     沼尻 つた子    P38

沼尻さんの詠草は全体を通して
しっかりしたテーマを毎回持っているように思います。
今回は塔の会員で他界された方を
しのんで詠まれた歌のなかの一首です。
他者の死を聞いて、いつか自分にもやってくる
死を意識せざるを得ないときがあります。
本名のなかにある「美」という字の
フォルムの美しさに触れながら
果たして「うつくしく生きる/死ぬ」ができるかどうか
自問自答したのではないでしょうか。

レシートにユキの表示あり小麦粉の「雪」と分かるまでの数分          上大迫 チエ  P43

レシートを見ているといろんな発見があります。
この歌のなかでは「ユキ」という表示から
「?」と思ってから具体的な商品に思い当たるまでの
数分間を詠んでいます。
小麦粉の「雪」は日清フーズの小麦粉ですね。
この歌に詠まれているのは
日常のとても些末なことなのだけど
些末なことが十分面白い作品になるのが
短歌の興味深い点です。

萩に雪 ここを遠くに目覚めたるきみのひとりを大切にする     山内 頌子    P49

初句切れで大胆に景色を提示してから
心情に移る構造が潔い歌です。
「きみのひとりを大切にする」はすこし難解ですが魅力的です。
きみというひとり、なのか
きみのなかのかけがえのない部分なのか?
「ここを遠くに」だから離れているのかもしれない。
とても繊細な感覚が漂っています。

 

 

 

塔2017年3月号 1

塔3月号を読んでいきましょう。
まずは月集から。

息子には息子の闘い 冬の野の遠いところで尖りゆく見ゆ    吉川宏志

自立していく年齢の息子を父親が遠くから見ている歌。
「冬の野の遠いところで」という描写が映像かイメージの世界みたいです。
「冬の野」で厳しい状況にいることはわかるのですが
それ以上に「遠いところで尖りゆく」という語によって
異質な存在になっていく息子の様子を
鮮やかに描いています。

「いつも来る年寄りのひと」と父を呼び母の話の辻褄は合う    前田康子

病気の母親がもう配偶者のことも把握できなくなっている状況。
娘である主体にはつらい状況でしょう。
でも「辻褄は合う」というところに複雑な気持ちを感じます。
わたしの祖母も晩年は
記憶があいまいになっていったのですが、
年老いるって残酷な部分があって、
どんどん欠けていくプロセスでもあるのだろうと思います。

子と暮らす残り時間を思いつつ卵焼き作れば子は喜ばず   松村正直

こちらはまだ自立には時間がある息子さんがいる家庭です。
ちょっと難しい年ごろなのか、
「子は喜ばず」といった状況。
ここで「子が喜ぶ」といった
ありがちな〈いい話〉にしないあたりが
ちょっとした日常の描写として味わい深いところです。
「卵焼き」というなじみ深い料理がいいな、と思います。

弁当に梅干しひとつナースらのドキュメンタリー的食堂の昼   松木乃り 

最後にはまた雰囲気の違う一首をあげておきます。
病院の食堂でお昼ご飯を食べているナースの様子を見ていたのか
「弁当に梅干しひとつ」というとてもシンプルな弁当から
「ドキュメンタリー的」という締めくくりになっています。
ちょっと意外な現実を見てしまった、という感じがあって面白い。

 

 

光森 裕樹『うづまき管だより』

 光森裕樹さんの第二歌集『うづまき管だより』を読んでみました。

2010年から2012年までの作品が収められています。この歌集は電子書籍なんですね。

・・・実際に読んでみて、これはこれでいいかもしれないな、と思っています。

いや、紙の本好きですけどね。

 

第一歌集ではとても美しいイメージを定着させていた歌群ですが、『うづまき管だより』ではもう少し他者の輪郭が出てきたように思います。

 

他者との距離感

いい意味で、ね。と付け足して切るときのパプリカに似たその切断面  

イヤフォンをあらたに買ふは常ふゆのみぞおち友を替へるにも似て   

春紫苑の茎の空洞ひとごとに忘れずのこるものは異なる      

棄てかたと去りかたのみが吾をわれたらしむるもの夏鳥を追ふ     

一首目はとても示唆的な一首です。
他者との会話をしていて、なにかマイナスイメージを
纏った言葉を言ったのでしょう。
「いい意味で、ね。」と付け加えるのだけど
そして決して嘘ではないのだけど
空虚さを内包している会話でもある。
「切る」という動詞は会話を打ち切る
ということかなと思ったのですが、
「パプリカ」という野菜を切るときの動作や
「切断面」のイメージが浮かんで
オーバーラップしていきます。

二首目はなじみ深いアイテムである「イヤフォン」と
友達を替えるという行為の結びつきが面白いです。
とても淡い人間関係はそんなものかもしれない、
という共感があります。
「ふゆのみぞおち」は冬のはじめから中間くらいかな。

三首目は景(具体的なもの)と情(観念や思い)の組み合わせ。
「茎」という細い物体の中の空洞から、
人の内面の深み、残っていく記憶や思い出の差異に
想像が膨らみます。

四首目は共感した歌。
「棄てかたと去りかた」は決断しないといけない局面なので
どうしようもなくその人の特質が出てしまうのでしょう。
夏鳥を追ふ」という結句に主体ならではの去り方のイメージが提示されています。

 

親しい人の描きかた

この秋の把手のごとく見てゐたり君わたり来る白き陸橋

陽を嫌ふあなたがナイフに崩しゆくナポレオン・パイの屋上屋

一方で、親しい人の存在は第一歌集よりもくっきりしてきた感じがあります。
一首目は「この秋の把手のごとく」が美しい。
扉の「把手」という小さな物と、「白き陸橋」という大きな物体との対比が
面白いイメージの重ねかたになっています。

二首目では苺がたっぷりのった「ナポレオン・パイ」を食べている人は
「陽を嫌ふあなた」だという。
「屋上屋」を崩している、というシーンが面白くて
パイ生地が重なっている「ナポレオン・パイ」を
ユーモアを交えて詠んでいます。

 

連作を構成する意識

がたん

並走する列車のなかをあゆみゆく男ありどこか吾に似てをり    

ごとん

並走する列車のなかを見つめゐる吾ありどこか彼に似てをり

光森さんは連作を構成する意識がかなり強い人のようで、
2首~4首あるいはそれ以上の短歌をセットにして
繋がっているときがあります。
上に引いた2首はその一例です。

よく似た短歌ですが、「男」と「吾」が入れ替わっていて、
対になっています。
『鈴を産むひばり』の中にも少しあったのですが
(『鈴を産むひばり』P56参照)
第2歌集以降でよく見かけるようになります。
すこしずつシーンや位相をずらしていくことで
シークエンスを生み出しているので、
映像みたいなつくりだと思うことがあります。

 

第二歌集で出ていた変化に注目しながら見てみました。第三歌集も、もう一度読み直してみます。