今回は中津昌子さんの「むかれなかった林檎のために」を取り上げてみます。
この歌集、装丁がすごくきれいなんです。
紺色の表紙に金色のプレートみたいなタイトルがついています。
品があって好きですね。
■植物に託した歌
つよい国でなくてもいいと思うのだ 冬のひかりが八つ手を照らす
鬼百合のつぼみがあかくふくらむをまるごと濡らし雨は降るなり
シャコバサボテン花火のように咲き下がる窓辺に冬の手を置いている
歌集のなかでとても数が多いのが植物を詠んだ歌です。
一首目、上の句のしずかな断言と
下の句の情景の組み合わせが荘厳です。
八つ手という人の手を連想させる植物によって、
「つよい国」という方向とは別の発想を想起させるようです。
二首目、鬼百合は赤い花に黒い斑点という、とても個性的な強い色をもっています。
開花までもうすこし、といったくらいにふくらんでいるつぼみを
「まるごと濡らし」という表現に、雨のなかにふくらむ花の迫力を感じます。
三首目、シャコバサボテン、とても鮮やかな色と面白い葉の形状を持っている植物です。
サボテンですが開花は10~12月頃ですね。
色やフォルムがたしかに散っていく花火を思わせるのですが、
窓辺の「冬の手」との組み合わせで
夏の思い出をまだ引っ張っている気持ちを感じました。
■老いていく母を詠んだ歌
母が忘れた上着をもらいにゆく道の下ったところを黄にするミモザ
これ以上母から母がはみ出ぬようサランラップはきっちりかける
すだちの数を分けあいながら母の手とわが手が光のなかを交差す
母がだんだん老いていく様子を間近に見ているときの歌が多く
とても切々とした雰囲気を持っています。
たっぷりとした黄色の花を咲かせるミモザ、
春先に明るい光が集まって咲いているみたいな花です。
「下ったところ」という提示で
気持ちが沈んだところ、という心理的なイメージが浮かびました。
二首目は老いてだんだんと記憶があいまいになって
昔のことを忘れていく様子から詠んでいるのかなと思います。
「サランラップ」という日常使っている具体的アイテムが
介護のイメージに使われているところが
なんだか余計に悲しい。
三首目、すだちのつやつやした色味や光の射し方が浮かんできます。
「分けあいながら」という動作で、共有できる残り時間を
確かめているような気もします。
■代名詞、名詞の印象が強かった歌
そこへゆけばかならず会えるという冬のそこは小さな庭なのだけれど
かならずさびしい春のためにと埋めおくジャクリーンと名のつく球根
百合のつぼみが壊れゆくのがうつくしい夜をしずかに追うカポーティ
一首目は不思議と印象に残りました。
「そこへ」「そこは」で示された場所は
作者の思いでや記憶の一部を指しているのかもしれません。
二首目、初句がすこし奇妙な感じをもっています。
「かならずさびしい春」、春はそういう季節と決まっている前提が作者にはあるのでしょう。
「ジャクリーン」はチューリップの一種ですね。
ちょっとくびれた曲線を持ちながら咲く、面白いフォルムのチューリップです。
春に咲いてくれたら寂しくない、お守りみたいな役割を負っているのですね。
三首目は壊れていく様子のなかの美というすこし危うい魅力があります。
「百合のつぼみ」なので、咲かずに終わっていくということや
朽ちるとか枯れるでなく「壊れゆく」という動詞の選択に悪意みたいな意図を感じます。
「カポーティ」という作家やその作品との組み合わせも
ちょっと陰湿な感じがあり、とても興味深い内容の歌です。
花を詠みこんだ歌や作家などの人物名を入れた歌に
とても印象的な歌が多かったと思います。
ご本人の病気や親御さんの老いなど内容は深刻なのですが
歌のなかに適度なゆったり感があって読みやすい、という印象です。