更新、止まっていました。
久しぶりの歌集評です。
小島ゆかりさんの14冊目の歌集。
生きていることの嬉しさや意外性、そして大変さなどがどの歌からも伝わってきます。
ひとつひとつは平易な言葉なんだけど、すごくハリがあるんです。
日常となった老いと死
椿見れば椿に見られわれに棲む死者もつぎつぎ眼をひらくなり P21
これの世のところどころに穴あるか紛失したる手袋あまた P29
ひたひたと空気つめたくなる時刻だれか死にだれか手袋をする P31
病む母を時間の谷に置くごとくいくつもの秋の旅を行くなり P10
くりかへしどこへ行くかと聞く母よ大丈夫、銀河までは行かない P145
老いや死ぬことが、日常生活のなかの本当に一部となっていて、ちょっとしたところに他界した人や失った者との接点が出てきます。
自分自身の老いもまぎれなく、かつていた人やいままさに老年を生きている人が、そこかしこに点在している感じ。
咲いている椿に見られるうちに、自分のなかの死者たちの眼に見られている心地、という一首では、不気味ながらも映像的なイメージが浮かびます。
手袋という人の手のフォルムをしたアイテムは、つけている人や持ち主の手を想像させます。
いつかどこかで失った手袋、だれかが死んだこととリンクするように嵌められる手袋。日常のところどころにふっと開いている暗い穴。
落としてきた手袋は、単なる手袋ではなくて、自身の一部だったはずです。親しみ深いアイテムが紛失とか喪失といったイメージをまとって、すこし冷たい感じすらします。
老いた母も歌集全体に出てきます。旅行に行くときにも気がかりな母のこと。
「時間の谷に置くごとく」としたことで狭間に隠しおくよう。いっときの旅に出るときも完全に自由ではない心理やうしろめたさや気がかりなどが伺えます。
「くりかへしどこへ行くかと聞く」くらいの不安さを抱えている母。「銀河までは行かない」というスケールの大きな返し方で、ぽん、と想像上の空間が広がります。
介護の歌や老いの歌は前からあったものの、本作では、孫という新しい生命の誕生が加わり、さらに時間に厚みが出ます。
新しい命のもつハリや弾力
新涼の肌も白歯もひからせて乳吞み子の母は焼き肉食べる P66
だつこひものママさんたちはぷりぷりの海老のやうなり車中に四人 P90
をさなごに鼻つままれて「んが」と言ふ「んが」「んが」古いオルガンわれは P124
母といふこのうへもなきさびしさはどこにでも咲くおほばこの花 P56
母となり祖母となりあそぶ春の日の結んで開いてもうすぐひぐれ P180
われに似る小さき人よ今日の日を君は忘れよわれは忘れず P181
「六六魚」のなかでは、娘の出産という大きな出来事が描かれています。
言葉のなかにハリや弾力があって、それが新しい生命の誕生や迫力と響き合うような勢いを感じました。
エネルギーがいる「乳吞み子の母」。勢いよく焼き肉を食べているときに見える歯の白さや肌のツヤを「ひからせて」とすることで、その若い生命力を伝えてきます。
幼い子を抱っこする若い母親たちを電車内で見かけた歌には「ぷりぷりの海老のやうなり」というちょっとびっくりするような比喩があります。でも、車内の光景がありありと浮かんできます。
難しい言葉は入っていないのに、このハリや弾力感はなんなんだろう、と驚きます。
孫と遊ぶ歌にも、小島ゆかりさんならではのユーモアが光ります。
「んが」という濁音混じりの声をリフレインで使いながら、自らを「古いオルガン」という表現で、やや突き放して描いています。いっしょに遊んでいるシーンが、いきいきと映像のように浮かんでくる感じ。
単なる孫がかわいい、という歌とはまた違う描き方ではないでしょうか。それにしても、「古いオルガン」というアイテムの絶妙さや「んが」という声、なんともやわらかくて愛嬌があります。
母になった娘を、すでに子育てを終えた側から心配しつつ見守る歌もあります。
「おほばこ」はどこにでも生えている植物です。ありふれたものに例えるほど普遍的な「母といふこのうへもなきさびしさ」にいま、娘が加わっていく感覚に、痛みとか悲しみを共有するときの気持ちの震えを見てしまいます。
小島ゆかりさんの母であった人生に、さらに祖母になった時間が加わり、さらに時間の層が増えていきます。
幼い孫は、一緒にいる「今日の日」を当然、覚えていないでしょう。「君は忘れよわれは忘れず」ということで、新しい家族と共有している時間の儚さを思わせます。
ちょっとしたユーモア
旅のはじめは旅のをはりに似てさびし足元に紺のトランクを置く P9
三分間ゆつくり老いてシーフード・カップヌードル、いただきます P27
人はやさし人はややこし春の夜の指はきりなく駄菓子をつまむ P107
豆腐一丁水に沈めてしづかなるこよひ豆腐も雨を聴きをり P118
どこかおかしみのある表現は、「六六魚」でも健在です。
カップヌードルを作るためのたった3分間ですが、その間も「ゆつくり老いて」できたヌードルを食べようとする一首。
「やさし」「ややこし」のリフレインに似た言葉の連なりから、駄菓子をずっと食べてしまう指の動きの繰り返しという動作につながっています。「きりなく」で何度も動く指を連想します。
豆腐をたっぷりの水に沈めて調理している(鍋?)のでしょうけど、外に降っている雨を「豆腐も」聴いている、という発想は面白い。豆腐も静かな生きもののようで、家のなかでじっとしている感じです。
まとめ
読者をぐいぐいとひっぱって、一気に読ませる力や勢いのある歌集です。
本当は生活は多忙で、しんどい部分もあるはずなのですが、一首のなかにある、はちきれるような弾力や躍動感に惹かれます。
ハリや弾力のある言葉の連なりは、多忙な日々への抵抗のようにも思えます。べつに無理に抗おうとしているのではなくて、結果的にそうなっている感じ。
日々のなかのやりきれなさや悲しみ、驚きや喜びがどの歌にも凝縮されていて、読んでいる側もなんだか驚いてしまうのです。