波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

山下 洋 『たこやき』

塔の選者の短歌にはそれぞれの持ち味がよく出ています。
山下さんの短歌は、力の抜けた感じや面白さがあります。
『たこやき』は第一歌集で、当時から
すでにおかしみやユーモアのある歌も収められています。


最近の山下さんの短歌はこんな感じ。

なあ鳶よ埋めきれないぴーひょろろ距離ってあるんだよぴーひょろろ     塔2015年3月号

不思議やな老いて握力弱まるに蓋開けること上手になりぬ           塔2016年12月号

「ぴーひょろろ」の挟み込み方による距離感の演出や
「不思議やな」といった関西弁の使い方のあたたかみや余裕に注目します。

■物体や空間の把握

両の刃を持たぬ言の葉軋みつつ失意の肴白きアスパラ      *両=もろ      

銀の匙コーヒーカップに沈めゆき朝の深淵を測り合う街     *深淵=ふかみ    

電線の区切る矩形の空なれば果肉あらわにはじけよ柘榴                

山下さんは数学の教師として勤めてこられたそうで、
語の選択にその感覚がうかがえます。
一首目はとても印象に残った歌です。
「両の刃を持たぬ言の葉」なので、自分のせりふで
相手だけを傷つけてしまったのかもしれない。
「白きアスパラ」という、なんだか繊細な印象の野菜が
失意の状態と合っています。

二首目では朝に珈琲を飲んでいるシーン。
家かもしれないけど、なんとなくカフェのモーンニングかもしれない。
「深淵」にふられた「ふかみ」のルビが面白くて
その街、空間にまだなじんでいない感じがするのです。

三首目は空間の把握が面白い歌です。
「矩形」は長方形のことで電線によって
確かに空がそんな風に見えることがあります。
柘榴という球を思わせる果実にも
区切られたような線ができてはじけます。
窮屈な空間とそれに対する反発のような柘榴の破裂、とも取れます。

歌集の冒頭におかれている歌群では
空間や物体の把握に理知的な視点がよく出ています。

■ユーモラスな視点がある歌

たこやきは地球の形くるくるとおまえの串でまわしてごらん   

駅員が車輌を箱と呼ぶけれどびっくり箱じゃなくてさびしい      

くちびるをへの字に曲げているうちに案山子になってしまった俺か   

だんだんと会話をそのまま使ったような短歌や
砕けた感じの印象の短歌も増えていきます。

一首目はお子さんに向かっての歌。
平易だけれどユーモアのある視点は今の歌風に繋がっています。

二首目は下の句がとても面白い。
毎日の通勤にのる電車から「びっくり箱じゃなくてさびしい」という発想への飛躍。

三首目のように自分自身をちょっと突き放して詠む歌もあります。
戯画化した描き方で面白さとかペーソスがあって
うまくいくととても面白い描き方。

■亡くなった方への視点

他界にも天候というものあらば君のうえにも降るか霙は     

亡き友の面輪に似たる昼の月絹ごし一丁提げて仰ぎぬ       

「第弐章 レクイエム」では、亡くなった親しい人への挽歌が多く入っています。
その一部だけ切り取って引用するのがなんとなく
気が引けたのでこの2首をあげておきます。

降ってくる霙や、見あげる昼の月といった日常と
亡くなった人との記憶や面影が交差するときに
不思議な時間の溜まりみたいなものができます。
「霙」という雨と雪の混合や
「昼の月」といったやや目立ちにくい存在に託すことで
うっすらした死者とのつながりを感じます。

『たこやき』には学生時代からの歌も収録されているので、
山下さんの歌風の変化を追えるようになっています。

今の歌風につながる部分と、
とても硬質なつくりの歌の両方を楽しむことが出来ました。

 

謹賀新年

   暦またきりかえてゆく 雪景色ひとつむかうにひろげるやうに

 

あけましておめでとうございます。
昨年はこのブログに来てくれた方もけっこう多かったし
見た方から声をかけていただくこともあり、
続けておいてよかったと思います。

今年は古典和歌をもう少ししっかり勉強していきたいと思っています。
あとは批評の文章がもっとしっかり書けるようになりたいですね。

今年もどうぞよろしくお願いします。

柏崎 驍二 『北窓集』

 

風ありて雪のおもてをとぶ雪のさりさりと妻が林檎を剥けり  (*剥くで代用)

『北窓集』の巻頭におかれている一首です。
「風ありて雪のおもてをとぶ雪の」が「さりさりと」を導く序詞になっています。
外を舞う雪の様子から、室内で林檎を剥いている様子につなげていて滑らか。
雪の白さや林檎の赤い色など、
色彩の対比もとても美しい一首です。

■岩手の風土から生まれる歌

逃れ得ぬ風土のありてこの川に戻りくる南部鼻曲がり鮭

木綿垂のごとく羽振りて白鳥が一羽行きたり白き冬空  *木綿垂=ゆふしで

草の実も木の実も浄き糧ならず鳥よ瞋りて空に交差せよ   *瞋=いか

岩手県生まれの柏崎氏の歌には
郷里の風土や自然の色合いがとても強く出ています。
まさに「逃れ得ぬ風土」に居続けることで
磨かれた感のある歌が並んでいます。
一首目の「南部鼻曲がり鮭」は自らの、また周囲の人の姿なのでしょう。

二首目もとても美しい描写です。
「木綿垂のごとく羽振りて」がとても的確で白鳥の動きが浮かびます。

三首目は震災後の放射能の影響を詠んでいる歌。
瞋るは、「怒りで目を見張る」という意味。
「鳥よ瞋りて」でかつての自然とは違ってしまった
故郷への悲しみが出ています。

■方言をいかした歌

「荒れはでだ浜の様子だが見どぐべし」我らがつかふ勧誘の「べし」

てんでんこ逃げろど言ふがばあさんを助けべど家さ馳せだ子もゐだ  

沖さ出でながれでつたべ、海山のごどはしかだね、むがすもいまも   *出=で 海山=うみやま

一首目は震災があった後の一首です。 
「べし」という強い響きをもつ助動詞のなかの勧誘の意味。
長年住んでいる者同士の会話としてすごみや強さがあります。

二首目の「てんでんこ逃げろ」は三陸地方に伝わる言葉で
「各自、めいめい逃げろ」という意味になります。
昔からなんども地震津波の被害に遭ってきた地方で、
いざ震災が起こったときに避難するときの知恵として
受け継がれた言葉でしょう。
でもほかの人を助けようとして
家に向かった人ももちろんいるでしょう。
逃げようとするときの厳しい判断や選択、
その瞬間の心理の迷いや揺れを描いていて
痛切な一首になっています。

三首目の「海山のごどはしかだね」という言い方には
やはりその土地に長年暮らした人ならではの
達観があります。大勢の人が流されてきた現実のあとには
こう言うしかない部分もあるのでしょう。

東北の方言をそのままいかして詠まれる歌の素朴さや温かみと
現実の厳しさが迫ってくる時があります。

東日本大震災のときの逃げる様子や
亡くなった方のことを偲ぶ歌も多いです。

交わされた会話をほぼそのまま使うことで
その場で聞いているような感覚に近くなります。

読んでいて思うのは、現場の切羽詰まった感じや
しゃべっている人の体温を伝えているけど
単純な嘆きや恨みではないこと。
なんというかやりきれないような心情とか
昔から暮らしてきたひとの達観とか
複雑な感情が混ざって伝わってきます。

■達観のある歌

骨髄に針打たれをりこの部屋は夏の砂浜のやうにあかるい

幸福とか不幸とかいふ価値観を去らねばならぬ、なあ鷗どり

柏崎氏は2016年4月15日に白血病で他界されました。
一首目は病気の治療中の歌。
「夏の砂浜のやうにあかるい」は室内の様子なのか
心象なのか、さらっと詠んでいるようで
とても厳しい、痛々しい感じがあります。

二首目はとても達観のある歌。
ここまで言い切るのは本当に難しい。
飄々と詠んでいるようで、その裏にある
東北という土地の厳しさを思うと
とても重たい印象が残ります。

      *

土地に根付いた人の強さみたいなものが
ずっと底にあるような歌群です。
これまでにも多くの歌集があるので、
またじっくり読んでいきます。

 

大井学『サンクチュアリ』

大井学さんの第一歌集を取り上げてみましょう。なかなか難しい歌集で、しばらく置いていました。

 

私ではうまく読めない歌もいろいろあるので、読みのうまい人の意見を聞いてみたかったな。

 

大井さんの短歌では、現代の生活をとても冷めた視点で切り取ってくる歌と、ふるさとや自然を見ているときの柔らかい歌との差が大きくて、ちょっとびっくりしました。

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大森 静佳 「サルヒ」

先日、なんとか手に入れた大森さんの「サルヒ」から少しだけ。
今年の夏にモンゴルに行かれたときの写真と短歌で構成されています。
モンゴル語で「風」を意味する「サルヒ」には
大草原の景色が広がっています。

唇もとのオカリナにゆびを集めつつわたしは誰かの風紋でいい  *唇=くち

攻めなければ、感情の丘。この靴をこころのように履きふるしつつ  

この夏を痺れるばかりに遠くして帽子は何の墓なのだろう 

風が通った後にできる美しい風紋。
「誰かの風紋でいい」というさしだすような言い方で
他のものからの影響を受け入れるような覚悟があります。
オカリナ、というとても素朴な楽器を選択している点も魅力的。

二首目は初句から二句がとても面白い一首。
のどかな草原や遠くの丘。
日本とは全く違う空間のなかで
駆り立てられるような気持ちもあったのかもしれない。
足になじんでくたびれていく靴と心の組み合わせに
なんだかしみじみしてしまう。

「サルヒ」に収められている写真は、大きく空と地に二分されています。
本当に見渡す限りの草原と、人と動物たちの暮らし。
数日間の滞在だから、後からみると余計にまばゆいのかもしれない。
「帽子」という頭にかぶるアイテムが
「墓」と結びつくことで、
どうしても遠ざかってしまう記憶を哀惜しているようです。