波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

松村正直評論集『短歌は記憶する』

かなり以前の話ですが、短歌の評論を読むことに対して、私のなかでやや苦手意識が強かった時期がありました。

 

難解な文章もあり、私がいまひとつ内容についていけないだけなのですが、読んでいて面白い、とはなかなか思えなかったのです。

 

評論も面白く読み応えがあるものだな、と実感させてくれた1冊をあげるなら、松村正直著『短歌は記憶する』になります。

 

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久しぶりに本書を読み返してみて、歴史のなかにかつて当たり前にあった、そして時代とともに変わっていった風物や風景から短歌を読み解いていくと、面白い歴史が見えてくる、と改めて思いました。

 

第1章「時代と短歌」のなかで取り上げられているのは、漫画などのサブカルチャー、ゴルフの流行、日本の家屋や建築の移り変わり、看板などで見慣れた仁丹、といったアイテムや風景です。

 

時代を代表するアイテムや流行を取り上げ、どの視点から短歌を読み解くのかが明快なので、論全体がクリアなのです。切り口の鮮やかさが見事な評論集です。

 

短歌も世間の流行と無縁であるはずもなく、漫画やアニメの影響を受けたり、流行のスポーツを取り入れたりして、その時代の特徴を取り込んでいくこともあります。

 

一方で、かつては当たり前であったため、短歌のなかにも多く登場していたけど、時代のなかで変わらざるを得なかった風景を、後になって作品の中から眺めると歴史の流れや厚みが見えるのです。

 

今回読んでいて特に面白かったのが、日本家屋の変遷。

 

近代化によって、日本の住まいもかなり変わって、使用される素材にも大きな変化があります。

 

子規庵に使われていたガラスが西洋産の高級なガラスであったことや、そこから見える風景から生まれた短歌の特徴など、ひとつのアイテムを通して作品の価値や魅力が浮かんできます。

 

今はガラス窓から風景が見えるだけで感激することはあまりありませんが、当時は珍しかったことで、歌に詠まれた感激が強かったことに注目したい。最初の新鮮さは本当にいっときのもの。

 

昭和の家庭を感じさせる卓袱台の存在も、やはり時代のなかで変わっていきます。家族の一家団欒の真ん中に置かれていた卓袱台というアイテムが、山崎方代の短歌にどのように詠まれていたか見ていくことで、方代のキャラクター性にも迫る考察になっています。

 

暮らす場所の変化が、人間の考えや感覚に与える影響の考察もあります。

 

家屋を詠むことで、自分の暮らしぶりやその地域への気持ちまで反映されている中村憲吉の短歌の考察も興味深い。

 

家屋を詠んだ短歌の中から、自分の居場所や暮らしに思い悩む姿が浮かんできて、イエという仕組みのなかに囲まれて生きている個人の苦悩まで見えることになります。

 

小池光や花山多佳子の歌からは、郷里を離れて団地住まいになったことによる暮らしの変化や違和感を読み解いていきます。

 

団地という空間を奇妙に思いつつも、団地暮らしの面白さを詠んでいる歌も取り上げているので、単なる違和感の面だけ強調されないのもいい。

 

今親しんで暮らしている空間も、日本の経済や社会の変化に大きな影響を受けていると考えると、また違った視点から見えてくるし、自分の作品にどんな影響を与えているか考えるのも面白そうです。

 

ある角度や切り口から読み解くことで、短歌のなかから歴史が見えてくる様が楽しく、知的な興味をかき立てられます。

 

こんな評論ならもっと読みたいなという感想は、初めて読んだときから今でも変わりません。

 

くっきりと時代を記憶する、という点では、短歌には写真などと共通点もあると思います。

 

ただ短歌の場合、テキストのみで作られているので、写真のような視覚による伝達力に頼ることはできません。

 

使われている言葉の背景や一首の中の情報量を、読者側で補ったり調べたりして、少しずつ、作品の意図や本質に迫っていく。

 

知的な作業を行うことで、その中の時代にまで迫っていくことにつながる。この1冊を読んでいる最中に、そのプロセスの興奮を味わうことができるのです。