塔2023年5月号に掲載された「歌集・歌書探訪」の記事を以下にアップしておきます。今回取り上げたのは、佐藤通雅氏の『岸辺』。
この歌集で第34回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞なさいました。おめでとうございます。
「時間の厚み、心の厚み」
『岸辺』は佐藤通雅の第十二歌集。二〇一七年から二〇二一年にかけての作品が収められている。
薄氷の底ひを鯉の錆色の背の量感が滑りゆきたる P39
何本もの氷柱に滴ふくらみてこぼれむときその尖は震へる P253
対象物をじっくり見て、ここぞという部分を描写する描き方に注目した。「鯉」や「鯉の背」等ではなく「鯉の錆色の背の量感」で鯉の物体としての重量感、ゆっくりとした動きの流れを思わせる。
氷柱をつたう滴のふくらみ、零れ落ちる一瞬にその尖が震えるさまを見逃さない。捉える目は、ときとして自身や他者の内面を注視して作品化していくため、刃物のような鋭さを持つ。
あつけない終はりでしたねといはれたい夕の雲とそこは一致す P26
病とはつひにひとりのものだから雪のことばに耳を傾く P38
二〇一六年には自身の前立腺がんが発見され、治療を開始したとある。いつか来る死は、もう遠くではない。死を恐れるというよりあっけなく消えたい、という願望を詠んだ歌が時折混じる。
「病とはつひにひとりのもの」とは、自分の苦しみは、結局自分で引き受けるしかないという自覚だ。
なにもそんなにいそぐことはないといふ声にかへりみれば空にひるの絹月
*空=くう P91
「前立腺がん、一年間のホルモン療法で消える、三首。」という詞書が付された三首のうちの一首を引く。
下句には万葉集の〈東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ〉を思い出しつつ、上句の平仮名と大幅な字余りによって、たっぷりとした余情を感じる。「ひるの絹月」には儚いイメージが漂い、残余の時間が重なる。
〈おら家でも、息子と孫と無ぐしたけんど、やつぱり賠償金払はねばなんねのだべが〉 *家=え P203
よろこびとかかなしみとかでない、もっとべつの、ことばに遠い感情がある P205
岸辺にはなにか聖書の感じあり帽とり額に水の光当つ P141
東日本大震災の傷跡は深い。
「勝訴」という連作では、大川小学校の裁判について詠まれる。津波で多数の犠牲者を出した小学校の児童の遺族が、市と県に損害賠償を求めた裁判である。
二〇一九年に原告の勝訴が確定しているのだが、被告にも肉親を喪った前提があり、原告遺族の主張や疑問はもっともと思いつつ、なんともやり切れない。
第十歌集『昔話』(二〇一三年)にも「大川小学校」という連作がある。震災の傷が生々しい小学校の様子と、遺族の声を織り交ぜた痛切な一連だった。「勝訴」ではいまもってなお説明しがたい心理が詠まれる。
歌集タイトルにもなった「岸辺」とは、居住地のサイカチ沼や月山池のことであり、その水辺に幾度も通ったことが覚書に記されている。
岸辺にいるときの佐藤の胸に去来するのは、単純に把握できるようなものではない。まさに「ことばに遠い感情」を感じながら、その不確かささえ書き留めながら、日々を生きるしかない。ただ、そのことの重さを感じるのだ。
(塔2023年5月号掲載)