波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

松村正直『風のおとうと』評「現実との距離、そしてまなざし」(2017)

*松村正直歌集『風のおとうと』評として、かつて「塔」誌上で発表した文章です。今さらですが・・・ブログにも公開しておきます。(3年経っている・・・3年!?)

 

*掲載にあたって一部、表現を変えた箇所があります。

 

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松村正直『風のおとうと』評

現実との距離、そしてまなざし

 

『風のおとうと』は松村正直氏の第四歌集にあたる。二〇一一年から二〇一四年までに総合誌や結社誌、歌会で発表された短歌が収められている。第一歌集からの歌風の変化には、長い時間を経て磨かれた感覚の蓄積が感じられる。

 

日常の些末な出来事や、家族や身近な人に起こる出来事といった歌題に対して、すこし引いたところから見つめる姿勢としずかに踏み込む姿勢との両面がうかがえる。

 

つながれて自転車は樹の下にあり辺りの草を食むこともなく

 

うっすらと皮の透けたる豆餅の見ればわかるというやわらかさ

 

小籠包の皮のなかより溢れ出るショー・ロン・ポーという熱い息

 

吊り下げてポットの底へ沈めゆく袋より紅き色は流れつ

 

片道分の燃料だけを積み込んでこの使い捨ての黒ボールペン

 

日常のアイテム(ボールペンやティーバッグ、豆餅など)を日常とは違う感覚で描写している歌も多く、読んでいて面白い。意表を突かれる描きかたに感覚を揺さぶられる新鮮さがある。

 

つながれた自転車は羊のように草を食べるということはもちろんしないけど、静かに置かれた姿は従順で、どこか生きもののような親しみを覚える。

 

二首目のやわらかな餅を描くときに「見ればわかる」というセリフを差し込むことで、有無を言わせない迫力が備わっている。

 

小籠包からあふれる肉汁や熱を「ショー・ロン・ポーという熱い息」とする点に、ちょっとした遊びの感覚がある。

 

日常のアイテムをそのまま描くよりも、すこし引っ掛けを作るような歌も巧みだ。

 

紅茶のティーバッグをポットに沈めていく様子を、ティーバッグという言葉を使わずに、その仕草の流れで詠む歌。

 

「片道分の燃料だけを積み込んで」から、つい特攻隊を想像してしまったけど、実は使い捨てのボールペンのことだった、という歌。

 

日常の見慣れた光景を、もう一度言葉を探りながら描くことで、新しい驚きを生み出しているのだ。平易だが既存の表現によらない言葉の追求が見て取れる。

 

周りから引きとめられてやめるのをやめるならやめるやめると言うな

 

くきやかに浮かんで来たる形ありわだかまりなどないよと言えば

 

最初からはんたいでしたとみんな言うそれならこうはならないものを

 

少し違う角度から描いてみる、という視点が人間関係や感情の裏側にいたるとき、少し辛口の語り口となっている。

 

深い洞察があるために、具体的なシーンは描かれなくとも「わかるなぁ。表向きには言いづらいけど」と感じさせられる。

 

一首目は、なにかをやめるときに周りから引き留められて意見を変える人のさま。「やめる」のリフレインが面白い効果を持っていて、苛立ちや腹立たしさが迫ってくる。

 

二首目は、「わだかまりなどないよ」とセリフにすることで、かえってわだかまりがあることを自ら意識せざるを得ないという皮肉な感情の形を鮮やかに切りとる。

 

三首目は、現状を追認していながら実は反対だったと、あとになってから口にする人たちへの猜疑心。「はんたいでした」と、セリフの部分をひらがなにして書くことで、かえって実感のこもっていない、希薄な雰囲気を漂わせている。

 

現実のなかであえて気づかぬふりをしている、言うのを避ける心情を描き止めているときに、現実へのあるいは自分への苛立ちみたいな感情がじわじわと滲んでくる。

 

家族を詠んだ歌もあるのだが、具体的な内容をあまり描写せずに、注意深く周りを描いている印象を感じた。

 

妻の病気や、母親の配偶者の死など、大きな出来事があるのに、出来事そのものを具体的にはっきり詠むというよりも、出来事の輪郭を描いている構造になっている。

 

出来事を隠すためというよりも、周囲を描くことでかえって真ん中にある出来事がぼんやりと浮かび上がるのだ。

 

渡りゆくときまぶしくてはつなつの若かりしわれら二人を思う

 

すべてはこの日のための練習だったのか秋のひかりも見えなくなって

 

心配してくれてたんだと君が言う薬缶に沸かした白湯を飲みつつ 

 

妻の病気、そして手術という出来事に付き添っている夫の立場から編まれた連作が、中盤以降におかれている。

 

病気になった妻、息子、そして自身という立場をそれぞれ描きながら、家族のなかに流れてきた時間をうかがわせる一連になっている。

 

だれもが確かだと思っている家族という仕組みや親族の愛情が、じつはあてどないもの、儚いものであることに気づかされる怖さを含んでいる。

 

二首目は手術が終わるのを待っているときの心理。この一首だけでは何のシーンかわからないけれど、過去から今までの時間を「練習」ということで、どれだけの圧力がかかっているのかがうかがえる。

 

三首目の家に戻ってきた妻との会話も淡々としているが、「薬缶に沸かした白湯」を用いながら、夫婦間の距離感や空気感が出ている。

 

かなしみは風に遅れて来るものを母親のなびきやすき前髪         

 

はるかなる過去となりにき食卓をともにするのを厭いし日々も        

 

喪主である母を支えて立つ兄を見ており風のおとうととして

 

「手を触れる」という連作の中では、母親が離婚後に一緒に暮らしていた相手が亡くなったという出来事が描かれている。

 

母親にとってはながらく連れ添った相手とはいえ、息子である主体にしてみれば、血のつながりのない相手への心理は複雑であることが想像できる。

 

若いときには「食卓をともにするのを厭いし」というほど屈折した感情があったけど、今この世から去っていくときに立ち会うことになって、流れ過ぎ去った長い時間と感情が伝わってくる。

 

三首目は、歌集の表題にもなった歌である。かなしみのただなかにいる母親と、その母親を支えている兄の姿を、近くで見ている主体。その自己の姿の描きかたに自分自身に対する認識がよく出ている。

 

「おとうと」の前にわざわざ「風の」という言葉が入ることで、どこか実体のあてどなさ、存在の希薄さが浮かび上がってくる。

 

歌集を何度も読んでいると、対になっている歌に気づくときがある。

 

たとえば次の二首では、愛情と憎悪が実は裏表になっていることを、さりげない日常の中に見出す怖さがある。

 

もっとも愛した者がもっとも裏切るとおもう食事を終える間際に  

 

愛憎がやがて反転することの、卓上に水がこぼれることの 

 

容器に入っている水がふとした拍子にこぼれるように、人の感情もくるりと反転してしまう脆さが日常には潜んでいる。こまやかな視線によって支えられた幻想(イメージ)と現実の混ざり具合が心地いい。

 

全体を通してバランス感覚が絶妙である。

 

出来事を少し引いてみる視線を持つことで、感情だけに溺れない冷静さがあるけれど、同時に他人の繊細な内面やふだんは触れない側面へのまなざしがあるので、単なる観察に終わらない、という作りになっている。

 

日常を覆っている薄いヴェールを剝いでみたり、人間関係の思わぬ側面をそっと掬ってみたり、作者の姿勢がうかがえる歌集となっている。

 

一冊のなかには、現実をよく見ている点と、とらえがたい心理を表現している点が混在している。その混在そのものを楽しみたい。