波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

尾崎左永子『鎌倉もだぁん』から

ここしばらく、尾崎左永子さんの『鎌倉もだぁん』を読んでいました。

 

以前、三月書房で買った一冊です。(三月書房ももう一度くらい、行きたかったなぁ・・)

 

『鎌倉もだぁん』は、鎌倉での暮らしのなかで詠まれた作品群です。

 

春夏秋冬の鎌倉の風景や色や匂いを感じられる一冊。印象に残った歌をいつくか、引いてみます。

 

海の色とどむるゆゑに小鰯の光るを買ひて風の街帰る

 

生けるまま凍りし魚の光る背に海の色あれば罪のごとしも   魚=うを

   尾崎左永子『鎌倉もだぁん』

 

一首目は秋の歌。二首目は冬の歌です。どちらも魚の身の色や光具合に「海の色」を見つける歌という点では共通しています。

 

でも一首目はとても鮮やかな海の色や光の美しさ、鰯のつやつやとした質感が浮かぶのに対して、二首目では「海の色」に罪という暗いイメージを見てとっています。この差はなんなのか。

 

もちろん、歌の背景ともいえる季節が秋と冬であることも、関係があるでしょう。

 

一首目では小鰯の表面につやつやとある色や輝きを、「海の色」として捉えています。「海の色」があるからこそ光る、魚の体。

 

海の中で生きてきた魚の表面にいまだ残る海の色から、その生命や躍動感、その命を食べるだろう人間。連鎖の関係にあるそれらのイメージが浮かんできて、軽やかさもある一首です。

 

二首目では、すでに凍った魚の背。その背には海の色がまだあって、しかも罪を思わせるという。

 

そこには生命の強さとか輝きというよりも、もっと重たい、負の面があるように思います。

 

魚が死んだ後にまで、ずっと海の色をとどまらせていることからくる罪深さなのか、死んだ状態で延々と保存ができることに感じる不可思議さなのか。

 

魚の死というものを介して感じ取る海の色。生命や躍動感を感じるのも、死ののちの時間の長さのなかに感じる罪のような感覚も、どちらも正しいのでしょう。