波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

短歌結社・未来の選者をつとめる黒瀬氏の第四歌集。

 

第三歌集『蓮喰ひ人の日記』から続けて読んでみて、英国、日本の九州と居所を変えつつ、進んでいく人生の断片を描いています。

 

格調高い、やや硬質な雰囲気の文体でつづられるのは、日常のなかの家族の姿や仕事の有様。

 

美的で愛しいものと、日常の些末で混沌とした面との両面が織り込まれています。

 

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九州の自然を詠む

われはわが生を知るのみ白光の奥へ奥へと下りゆく水深計      10

 *水深計=レッド

 

澪はわが岐路のごとくに光れるを泥をついばむ黒面箆鷺      16 

 *澪=みを   *黒面箆鷺=くろつらへらさぎ     

 

錨を打たむと立てば潮風にひやけのもろ肌のみづぶくれ      17

 *錨=アンカー

 

九州での仕事は海洋の水質調査らしく、早朝から船に乗って何度も海上に出ています。

 

仕事で使用する「水深計」「錨」など、やや硬い用語が実際にそれらを使って仕事をしている様を伝えていて、歌の姿を引き締めています。

 

漢字に対して片仮名のルビが多かった印象があり、それがまた面白い。漢字表記の硬さと、片仮名による音の冷たさや響き具合のふたつが合わさって、ひとつのアイテムに二通りの印象が浮かんでくるのです。

 

仕事の歌から浮かんでくる、九州の自然に身近に接して生きている感覚が興味深い。

 

歌のなかに海上や海辺の様子、九州の山や河川の地名が詠まれており、読者として追体験していくことでその土地の匂いや陽ざし、季節などをたびたび感じたのです。

 

海の潮の香りや干潟での泥の感触、夏の日差しや春先の冷たさが残る空気感など・・・自然のなかにいるときに感じる温度や湿気、匂いなどが伝わることの豊かさ。一冊読んでいる間に、なんども感じ取りました。私自身は九州地方に住んだことはないので、未知の土地ですが、それでも空気感が伝わるのは面白い経験でした。

 

子供がいる日常

眠りゐる妻と児を部屋に鎖したる昧爽の鍵にぶく光るも        29

 *鎖したる=とざしたる

生のなべてを振り捨ててもと泣き叫びなめこを欣求する吾児である   61

 *欣求=ごんぐ

てんたうむしさんおきてーと薄明の小さなる死へ児は呼びかけつ     130

 

幾度も詠まれている幼いわが子。「児」の表記が多く、いきいきとしたセリフや食事をとる仕草や表情など、まさにその瞬間の鮮度を感じることができるのです。

 

子供ならではの奇抜な発想やセリフがほぼそのまま入っている歌は、そのシーンを的確に伝えてくれます。

 

歌にしておかないと、あっという間に大きくなってしまうだろう子供のセリフだからこそ余計に貴重。

 

単に可愛らしいだけでもなく、泣きわめいたり、急に熱出したり、といったシーンの描写が面白い。

 

食べる、寝る、遊ぶ、といった基本的な暮らしの動作(子供にとっては全てとも言える)に全力の様が、そこにいるたったひとりの子の姿を立ち上げるのです。

 

子供特有の言葉を生かしたルビも効果的で面白い。

 

猿公と白象、獅子を引き連れて児は眠りゆく森の奥まで     62

 *猿公=あいあい 白象=ぱおー 獅子=がおー

やねのむかういつちやつたね、と手を振る児よ父に飛行機はまだ見えてゐて  79

 *飛行機=ぶーん

 

2首目では、日常のセリフのなかで飛行機を「ぶーん」と呼んでいるんだろう、と想像して楽しくなるのです。

 

漂流の浮標にたたずむ青鷺のさみしくないか児を世になすは      37

 *浮標=ブイ

ゴミ袋提げつつ仰ぐ桜樹の、〈家〉を得て知るさみしさもある      63

 

産めやしない、産めはしないがアメジスト輝け五月なる疾風に      70

 

 

男親から見た時の子供を為すということ、育てるということ、自分は決して妻のように出産はできないということ、それらへの感情が断片的に登場します。

 

父親になってみて、育児という得難い経験をしているとわかってはいるだろうけど、ときおり兆す寂しさはなんなのだらう。

 

しばらくを付ききてふいに逸れてゆくカモメをわれの未来と思ふ       10

 

 

今あるものも、その後はどうなるか、分からない。時折兆すのは、この不確かさの予感でしょうか。

 

連作「水を送る」について

福島を巡っているときの連作「水を送る」も印象的でした。この連作だけ、少し異質な雰囲気。

 

福島県内の地名が読み込まれ、どうも線量検査等している歌があります。仕事で訪れたのかな。

 

いくら福島と真剣に向き合おうとしても、いわば余所者なので、作品にするのはすごく難しそうですが、意欲的なドキュメンタリー的作品と思います。

 

双葉村 警戒区域(詞書)

[東電は地域とともに]人あらぬ村の電柱どれもにこやか     52

 

1Fを国は遺跡とせぬだらう霜に包まれからすうり照る       58

 

電柱という無機質な物体を「にこやか」と感じるときに、広がってしまった光景の寒々しさが感じられます。

 

「1F」は福島第一原発。後世に残す「遺跡」とはしないだろう、その諦念に似た感覚と、下の句の霜に包まれた「からすうり」。

 

厳しい寒さのなかの「からすうり」。白っぽい霜と、そのなかの鮮やかな赤色が浮かんできて、色彩としては美しく、そして怖い対比です。

 

仕事なので、作業自体は淡々と対処するしかないのでしょうけど、その一方で、内面で感じるやり切れなさが作品に定着しているようです。

 

まとめ

 

本歌集の大きなテーマは、子供の姿と、九州の自然の中での仕事。

 

仕事、家庭。そのふたつのテーマを行ったり来たりする中で、今現在の自身の姿が浮かんでくるのです。

 

それぞれのテーマが連作の中でバランスよく配置されており、硬質な文体と子供の突飛なセリフ等の描写との融合も面白い歌集でした。