波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

『COCOON』18号 2

 

COCOON』18号に掲載されている時評について、少しだけ書いておきます。

 

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コクーンでは、メンバー同士で評論を交代で担当する機会があり、そのときどきの話題を取り上げた時評や、歌集の書評などが載っています。

 

今回、私が取り上げてみたいのは、久保田智栄子氏による「書評を評するということ」。現代短歌社が創設したBR賞について、考察が為されています。

 

選考結果の発表号である『現代短歌2020年11月号』ですが、第一回が該当作なしとなったことから、久保田氏はその理由を探っています。

 

久保田氏は、評が「思考停止」に終わることを疑問視し、選考メンバーの一人である染野太朗氏に近い立場に立っているようです。

 

その上で久保田氏は、座談会で語られている添田氏の考えを紹介しています。

 

「初めから終わりまで隈なく全身全霊で読み込む作業こそが、私は重要だと思っている。」

「”自分を殺してくれた書物”への愛」添田馨 

『現代短歌2020年11月号』P56

 

無論、このプロセスを真剣に行わない限り、価値のある書評など、出てこないだろうと私も思います。

 

コクーンの時評は1ページしかないので、かなり内容を絞り込む必要があるようですが、最後は添田氏の考えをそのまま紹介するより、さらにもう少し、久保田氏ご本人の意見を見たかった、と思います。

 

で、私が『現代短歌2020年11月号』で印象的だったのは、永田和宏氏による「書評が読み捨てられないために」です。

 

「ある作品を酷評すれば、それがそのまま自分に返って来る可能性もあり、さらに歌壇という場の狭さから、できるだけ波風を立てない無難な仲間褒め評がまかり通ることになる。」

「書評が読み捨てられないために」永田和宏

『現代短歌2020年11月号』P59

 

短歌の世界は親類縁者や友人同士で成り立っており、人間関係が相当に狭いので、実は率直な批評を行うのは、かなり難しいと言わざるを得ないことは事実です。

 

どうしても甘い言い回しに成りかねない関係性がベースに存在するため、批判的意見を含めて批評ができる環境を作っていくことも、また評の質の向上には欠かせないでしょう。