やっと塔3月号の評が終わりそうです。
すでに手元には塔4月号が届いています。
誰もいない広場からんと明るくてパン屋の行列延びゆくばかり
森川 たみ子 P106
人気のパン屋さんには、長い行列ができていて、しかも延びていくばかり。広場という広い空間なのに無人のせいで余計に広く見えてしまい、空虚な明るさがある。
その一方で長い行列という線形は長さをのばしていく。広場という広がりと、行列の長さという組み合わせによる、空間的な面白さがある一首です。
レオナール・フジタの描いた裸婦像は、その美しい肌が有名で「乳白色の裸婦」といわれています。
私も美術館で見たことがあるのですが、透明感のある肌で印象深いものでした。この歌で面白いのは、足が外反母趾であることに注目している点です。
画のなかでずっとずっと見られ続けるだろう裸婦たちの足が外反母趾のようだなんて、なんだか意外な点で興味深い。もしかすると、骨格の凹凸のデフォルメが外反母趾のように見えた、ということかもしれませんが。
風のごと吹きて痛みは遠ざかるミートソースを煮詰めるあいだ
吉田 典 P131
一連を読んでいると、作者は出産を迎えられたらしいです。この一首だけでは詳しい状況はわからないので、痛みというのが、出産に関わる痛みとは思わずに鑑賞することもできるでしょう。
痛みは自らの身体に感じるものであるのだけれど、なにか外から風に吹かれているような受身で受容する感覚でもある。一時的に痛みがやわらぐことを「遠ざかる」としたことで、自分自身の身体であるのに、もっと大きな力によって左右されている感じです。
「ミートソース」という血や肉の色を思わせる素材を選びながらも、「風のごと吹きて」と爽やかな言葉から入ることでグロテスクな印象がない、どこか静かで穏やかな一首になっています。
あらひざらひ話して楽になるならば、なるならば冬の線香花火
永山 凌平 P149
心の中にある感情や気持ちを、あらいざらい話すのは相手を選ばないとなかなかできないし、話したからといって必ずしも楽になるわけでもない。仮にすべて打ち明けて話したなら、どうなるのか。
「楽になるならば、なるならば」という仮定での繰り返しが、楽になれるなら話したいけど、話すわけにもいかない、という逡巡の強さを示しています。
四句目から結句にかけておかれた「冬の線香花火」という季節外れの花火によって、内面の葛藤は美しく消化されます。
結局は話せるはずのないだろう感情を抱えながら過ごすしかなく、ちりちりと火花を散らすような線香花火のさまが、内面と呼応するのです。