塔3月号の作品1からいくつか。
時間があれば、続きもアップします。
一度だけ一人暮らしをせし街の記憶にはなき橋を渡りぬ 小林真代 P35
久しぶりにかつて一人暮らしをした街を訪れて、懐かしくなって歩いてみたところだと思います。年月が流れたことで、記憶と実際の街並みはあちこち一致しないのでしょう。
かつては存在しなかったはずの橋を、いま歩いてみる。記憶のなかには存在しないけど、目の前にあるという奇妙さを踏みしめていることで経過した時間を渡っているような不思議さがあります。
落ち葉なら落ち花よりも踏み易く足裏にかろき崩壊を聞く 沼尻つた子 P43
まだ湿っていないカサカサした落ち葉をそっと踏んでみたのでしょう。1枚1枚重なっている落ち葉は薄くて、確かに落ち花よりも簡単に踏めそうです。
踏んだときに足裏に感じるのは、カサッとした乾いた葉の感触。「かろき崩壊」としたことで、破壊する怖さみたいなものを感じ取ります。
もうすでに木から落ちて、役目は終わっているだろう葉を人間が踏んで壊すことのなかに、単に葉を踏む以上の怖さみたいなものが現れるのです。
難民のまなざしかなし上質のパンフレットにあればなほさら 俵田 ミツル P46
短歌も含めて作品のなかで「難民」という言葉の扱いは難しい。
決まりきった悲劇的なイメージだけで扱うとパターン通りで終わり、仮に作者が安穏とした暮らしをしていればしていたで、他人事で終わることを避けられない。
取り上げた歌のなかでは、きれいなパンフレットのなかに印刷された、ある難民の眼に焦点が絞られている。
大きな眼なのか、鋭い眼なのか、それはわからないけど作中主体を含め、観ているものを見返すだろうその眼は印象に残る眼だ。
募金を呼びかけるためか、世界に起こっている出来事を伝えるためか、あるパンフレットの上に難民となった人が印刷されている。
手触りや発色がいいだろう「上質のパンフレット」に刷られているから、余計に悲しいのです。直接は会うことなどないだろう難民と、パンフレットのなかで知る現実。
あまり背伸びせずに主体の身近にある範囲内のアイテムに託して詠んでいることで、遠くにあると思いがちな出来事(紛争や難民など)から距離が開きすぎない作品になったのではないでしょうか。