以前も読んだことがある歌集からすこし引いてみます。
今回は真中朋久氏の『雨裂』から。以前読んだときより、じんわりした良さが分かる気がしました。
しりぞくといふさびしさにありたるを春のひかりがよぎりゆきしのみ
『雨裂』の最後におかれている「旧河道」という連作からの一首です。一首目におかれていて、歌の背景はいまひとつはっきりしません。
春という時期から連想して、上司か先輩などで退職なさった方がいるのかな、と思います。
退く、というのは一つの決断であって、寂しさを伴うこともあります。それでも、そばを通るのは「春のひかり」だけ、という描写により深い寂しさがあるようです。
「春」だけが漢字で、他のことばはすべてひらがなにひらかれている点も柔らかく、ゆっくり言葉をたどりながら読みました。
この少し後には、次のような歌もあります。
逃げるなといふこゑはどれも姿なく桜の森にあまた舌が見ゆ
作中主体にむかって、「逃げるな」という声を発するなにものかがいる。
実際には直接、「逃げるな」というセリフではないのかもしれないけど、仕事や人間関係などで見動きの取りづらい状況に置かれているのではないかな。実質、逃げにくい状況になっているのではないかな、などの状況を考えました。
いくつかの声は聞こえるのに、にもかかわらずその声の主の姿が見えないのが不気味です。
でも、眼下には春の桜の樹々。満開でないとしても、だんだんと桜の花の咲きゆくさまやその淡い色が、たくさんの「舌」に見えたのではないでしょうか。
桜から思い描く美しさよりも、どこか不気味さを感じさせる歌です。
春という時期にともなう変化や、心理の揺れが連作のなかに込められていたのかもしれない、と思います。