久しぶりに歌集の評を更新しましょう。
歌集を含めて、書籍をじっくり読んでいるだけではなくて、自分なりに評を書いておくのは今の考えを整理して、後から振り返るためにも意味があると思っています。なにより、文章を書くことそのものが、やっぱり楽しい。
「去年マリエンバートで」は林和清氏の12年ぶりの第四歌集です。
全体として、死の匂いと、時間の厚みの濃厚な歌集でした。
生者と死者
死んでない人のことを想ふ日もあれば欅がまた葉を降らす 13
ポスターが貼られるかぎり死者はゐてそこだけが人の目をひきつける 20
犬死をしたものは犬として生きるエノコログサの野辺にまみれて 23
一首目では、生きている人のことをわざわざ「死んでない人」という表現で指しています。逆に言うと、死んでいる人のことを考える日もまた同様にあるのでしょう。
屈折した表現で生の側にいる人を表すことで、かえって死者を意識させます。
「欅」がふらせる葉という儚い存在によって、「死んでない人」はあくまで死んでないだけであって、いつ死ぬかはわからない、とも取れます。
二首目では映画のポスターのなかの俳優の顔に注目しています。ポスターのなかに存在する死者の顔。そこだけが妙に人の意識を引き寄せる。
生者よりも存在感をもっている、死者。ポスターを見つめる作中主体という生者も、強烈に惹かれる部分があるのでしょう。
三首目ではムダに死んでしまった人が「犬として生きる」という皮肉。
人間としては犬死したものが、生命としては死ぬこともできずに犬になって生きる、というのはけっこうな苦痛ではないでしょうか。
「エノコログサ(狗尾草)」という名前から「犬死」が連想されたのだと思いますが、言葉遊び以上の不穏な感覚のある歌です。
*
死者は、私たちが生きている世界とは違う場に行ってしまったけど、それは生きている者と無関係になったことを意味しない。
むしろ死後ゆえの存在感を持ち始めます。生きている者は、別世界にいる死者の存在感を感じ取り、死者の視線に見られているという気配を感じる。
「死」という避けられない点を通過した側からの視点や気配を感じて、ひやっとした感覚が流れているのです。
死んだ父に嫌はれるといふけつたいな思ひがよぎり寒夜すぐ消ゆ 15
寒月に遠く清水寺が見ゆ死者からもこちらが見えてゐるだらう 136
すでに他界した父親のことも詠まれています。死んでいる父から嫌われる、とは奇妙な感覚ですが、ふとよぎる感覚。「けつたいな」という方言が妙に生きている者の温度を感じさせます。
二首目は第三部に置かれている「1章 24時間」という100首のなかから。清水寺という舞台も死の匂いが強い場所です。「死者からもこちらが見えてゐるだらう」とは、死んでいるものに見られていることをほぼ自覚している視点です。
生きていながらべつの世界ともつながっている感覚は、「過去に死んだ者」と「自分が生きている現在」と「自分にもいつかくる死という未来」の時間軸のつながりであると同時に、他界したものとの精神のつながりとして、繰り返し登場します。
京都という分厚い歴史をもつ地域にずっと住んでいる作者であるがゆえ、時間軸のつながりは長く、歌のなかで歴史の厚みをさっと移動することも多々あります。
日常の中の「死」との接点
死と隣りあふものみちて花野ありすすきぼろぎくあきのきりんさう 28
さくらばなひとつびとつは蔵でありむかしのひとの名前を蔵ふ *蔵ふ=しまふ 36
耳だけがめざめてゐたと廃線にいつかくるはずの電車待ちつつ 45
一首目では秋の草花をひらがなで並べて表記しているけど、それらも常に死と隣り合わせ、という視点。
二首目の「さくらばな」もやはり死のイメージが強い花です。ひとつひとつの花に秘められている「むかしのひとの名前」。たぶん故人の名前ではないかな、と思うのですが・・・。
三首目では、電車を待っている、といいながら実は「廃線」であること。「いつかくるはずの電車」というのはもしかしたら、死者のための乗り物かもしれない。
いたるところに散見される「死」との接点。現実を生きながら、同時に別の世界への接点もありありと感じてしまう感覚が強くあります。
皮肉のある視点
ヘイトを叫ぶ人、叫ばない人どちらにもあるのだ暗く凍る泉 66
ゑのころが根ごと抜かれて死んでゐた人と人には悪意も絆 92
人間には他人を死ぬまで傷めつけたい衝動があつて校庭の砂つぱら 103
ちょっと皮肉の効いた歌。一筋縄ではいかない感覚があります。
一首目のなかにあるように、ヘイトを叫ぶ人にも、叫ばない人にも存在する「暗く凍る泉」。精神のなかのもっとも暗くて冷たい部分を指しているのだ、と思います。
たとえば私はヘイトを叫ばない側にいるけど、だからといって、自分のなかが潔白かというと、そうでもないこともわかっている。内面を見透かされているような感じもします。
道ばたで根っこから引き抜かれているえのころぐさ。なにかと善のイメージをまとう「絆」という語ではあるけど、案外、悪意もまた「絆」たりうることを見抜いている。
人間の内面に巣くっている「他人を死ぬまで傷めつけたい衝動」。促音で吐き捨てるような「砂つぱら」にもいい意味で荒っぽさがあり、殺伐とした空気感が出ています。
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「去年マリエンバートで」を読んでいると、生と死の接点はいたるところに存在していることを感じます。
たぶん大半のひとは、意識しだすと怖いから考えずに避けているような気もするのですが、一冊のなかにただよう臭気みたいな感覚が少し怖い。
美的な感覚を持って死との接点を見せられると、怖いと思いつつ、見ざるを得ない。作品のなかに読者を引っ張り込む力があります。