波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2018年6月号 1

先日、はじめて出町座という映画館に行ってきました。

京阪出町柳駅から徒歩5分、商店街に行くまでに鴨川を渡るのです。

・・・夏の日射しに川面がキラキラしてきれいだった。

かなり昔、京都は本当は住んでみたい街だったことを

思い出して、帰りにちょっとしんどくなってしまった。

新参者ゆゑに褒められてゐるのだと気づかぬかそのそこの青年

 

おほかたはのろひのことばみみもとでほめそやすこゑはことさらにして

                    真中 朋久 P5

かなり皮肉な歌だな、と思います。

どこか新しいグループ内に入ってきたときに

やたら褒めてもらえると親切な人たちに思えて嬉しいだろうけど、

実は表向きの態度にすぎないことってあります。

残念だけど、その事実に気づかないままでいると

さんざんおだてられて、都合のいいときだけ

使われる人間にされてしまう・・・。

「気づかぬかそのそこの青年」という突き放した言い方で

グループ内からちょっと距離を取っている姿勢が見えます。

「青年」という若さゆえにまだ集団の内部の怖さみたいな

ものにまで気づかないのか、

その姿はかつての自身や周囲の人の姿を思わせるのか・・・。

「表」で言われるだけの「言葉」に含まれている

真の意図の「毒」を見抜くには

それなりの年月が要るのでしょう。

また2首目は一首全体が呪いの言葉みたい。

「みみもとで」という点がポイントで

ごく間近で言い続ける声の気味悪さを感じます。

表向きは褒めているセリフが、実は相手を

支配するための呪いの言葉であることを

ひらがなによる不気味さをいかしながら表現しています。

トンネルをふたつ抜ければ見えてくる冬陽を容れて眩しい近江        山下 洋 P5

トンネルのなかは暗いから、抜けたときほど

光を眩しく感じるものです。

トンネルを「ふたつ」という点が興味深く

長い長い暗さのなかを走ってきた時間の経過を思わせます。

下の句もいいな、と思いました。

「冬陽を容れて」という表現で

たっぷりの光を収めている近江(滋賀県)、

そして琵琶湖の光景がひろびろと広がります。

河野裕子さんの有名な歌で

「たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」

があります。下敷きになっているのかな。

暗いところから明るい場所へ出たときの視界の広がりや

光の量、感じる眩しさを想像して

解放感のある歌です。

わが影に入りて出てゆくいくつものつむじ見ており歩道橋の上に   永田 淳   P6

歩道橋の上から、下の往来する人々を眺めている。

それだけのことですが

ちょっとした面白さがあります。

上の位置にいる主体と

下の位置にいる通行人たちの間には

歩道橋の高さの分の距離が開いているため、

通行人たちは意識していないけど

歩いている最中に主体の影を通過していきます。

主体は上の位置からその動きを眺めていられる。

「つむじ」という普段あんまり見ない角度から

複数の人たちを見ている。

影という自分の分身ともいえる存在のなかに

入っては出て行く人たちを眺めることで

通行人を把握(?)しているような感覚を感じます。

釣り好きの院長なりき診察券に浮かびつづくる一艘の舟     梶原 さい子    P10

長年、定期的に健診に通ってきた病院の院長先生。

かれこれ10年通ってきたらしく、

患者である作中主体も院長先生もおなじだけ

年をとっている。

そして、今回が最後の診療になることが

前におかれている歌から分かります。

クリニックの診察券にはロゴやイメージイラストが

印刷されていることがあります。

デザインやカラーなど、そのクリニックのイメージに

合ったものになっているはず。

診察券には「一艘の舟」のイラストがあったのでしょうか。

仮になかったとしても

作中主体にとっては、「一艘の舟」が

院長先生にまつわる思い出として浮かんでくるのでしょう。

水面のうえにただよう「一艘の舟」、

ちょっと儚いイメージを伴って

10年にわたる診察を担当してくれた

院長先生への感謝とか

無事に過ごしてきた感慨とかが伝わってきます。

わたしにも春といふ窓開きゐて名前で呼ばるることの寂しさ     松木 乃り   P17

この一首だけだと具体的なことはわからないけど、

春という季節にともなう寂しさを詠んでいます。

春なので、なにか身の周りに大きな変化が

あったのかもしれない。

春という新しい季節が「窓」として

開くことで、否応なしに

外の世界と向き合うことになるように思うのです。

下の句もちょっと分かりづらいのですが

名前で呼ばれるのだから

それなりに親しい人から呼ばれているのだろう、

と思います。

でもそれを寂しい、という。

あまり望んでいない変化に対応していくことが

必要なときの寂しさ、かもしれないと思います。