波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属。  ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

塔2018年5月号 1

今回はゆっくり読んでいてブログの更新が進まないー。

まずは月集から。

 

溶けてゆく蝋にみずからを映しつつ炎は立てり死とのさかいに    吉川 宏志    P4     *「蝋」は代用しています。

炎は蝋燭の先端で燃えながら、同時に蝋を溶かしていく。

蝋が溶けてしまった時は、同時に炎にとっても終わりのときです。

炎と蝋燭の関係って、寄生しているものと宿主の関係に似ているのかもしれない。

この歌のなかで不思議なのは「死とのさかいに」という結句です。

蝋燭をつけているので、なにか死に関連する場所に

作中主体がいるのかもしれないけど

かりにそうでなくても、蝋燭そのものがもつ特性を詠んでいるような気もします。

つまり、自らを溶かしつつ炎という存在を成り立たせている

蝋燭そのものの矛盾のように思うのです。

燃えている間は炎は存在しているけど、同時に蝋を溶かしている、

やがてどちらも消えるという「死」に向かっている、

その短い時間の経過を詠んでいるようにも思うのです。

空に死はいっそう充ちてここにいるりゆうをひとつなくしてしまった     江戸 雪    P6

今回の江戸さんの詠草は、亡くなった澤辺さんへの挽歌でした。

結社のなかで知り合って、お世話になった方が亡くなるといった経験は

確実に「ここにいるりゆう」を削っていくものなのでしょう。

私はまだ塔で直接知っている会員さんや選者の方が亡くなった、みたいな

経験はしていないのですが、いつかはやってくるのでしょう。

死によって二度と会えなくなる、という重さは絶対的なものですが

歌人の場合は、短歌に詠むことで偲ぶこともできます。

三句目以降がすべてひらがなになっていて

欠けてしまった気持ちを伝えています。

確固とした形を持っていた「理由」が、

ひらがなになることで解体されていく。

こころのバランスの解体が、

文字の解体として視覚化されているのが興味深いところです。

買ひ来しは娘かわれか雪の日の本棚にあるサーバの詩集    木村 輝子      P11

もうだれが買ってきたのかはっきりしないくらいの

時間が流れてしまったのでしょう。

雪が降るくらい寒い冬の日の本棚におかれたままの

「サーバの詩集」。

たぶん詩集は前からそこにあったような気もするのですが、

雪の日であるから、余計に存在感が増したのかもしれない。

一冊の詩集を通して、娘とわれの境界があいまいになっている。

きっと詩集とそのなかの世界を通して、

二人はなにかを共有したことがあったはずです。

親子の結びつきをただよわせつつ、

雪の日のしずかな光景を描写していて、余韻があります。

いつもとおなじ光景のはずなのに、

いつもとちょっと違う雰囲気がある雪の日のシーン。

「サーバの詩集」というサ行音の重なりが

心地よくて、しんとした冬の日の雰囲気に合っています。

ガラス戸を拭く手をとめて牡丹雪人恋うるほどの切なさもたず    黒住 光      P11

窓ガラスを拭いて掃除しているときに

外では大きな牡丹雪が降っている。

ちょっと手を止めてその様子を見ていたのでしょう。

牡丹雪は牡丹の花びらに由来するとおり、大きめの雪片です。

降っているときに雪片の大きさにおもわず手を止めてしまう。

この歌のなかで印象的なのが

下の句で「人恋うるほどの切なさもたず」。

「もたず」という打消しによって、甘い感傷に流されない

主体の像が立ちあがってきます。

冬の窓辺という、ひときわ寒さや冷たさを感じるような場所で

外の世界との接点になるガラスを拭きながら

あえて言い切る精神性を感じるのです。

「ガラス戸」「牡丹雪」「もたず」といった

濁音の配置やバランスがよくて、アクセントになっています。

山の家の樹にふる雪はあなたとの昔話の四章あたり    なみの 亜子     P15

あんまり人気のない山の奥の家でのことかな、と思います。

しんしんと降る雪の様子を

「あなたとの昔話の四章あたり」というところに惹かれます。

「昔話」という以上、この歌のなかの光景は、

過去の回想だと思いました。

かつて暮らした場所や、そこで見た光景が今になって

振り返ると、長いお話しのなかの「四章あたり」。

「四章あたり」という表現がなかなか微妙で、

昔話はまだ続くのだろうけど、それなりに話が進んだあたりでもある。

もし中盤の転換点とすれば、ここから話は大きく動き出すのでしょう。

静謐な雪の光景を、これからも胸のなかに

置いておくのではないでしょうか。

現実の光景を「昔話」に託したことで現在からは

心理的な距離を取っているようにも思うのです。

冬をしまふ器のあらば幾たびも数ふる夕べ雪となりたり     溝川 清久     P17

「冬にしまふ」ではなくて「冬をしまふ」とはちょっと不思議な感じ。

「を」という助詞のせいでしょうか。

冬にしか使わない器をしまう、ということは

その季節の区切りを迎えることであり、

季節の変化を実感することなのでしょう。

そう考えると、「冬をしまふ」という助詞に納得がいきます。

「あらば」と順接の仮定条件なので、

「もしあったら」という意味になりそう。

(これでよかったのかな・・・?)

冬にしか使わない器(がもしあったら)その器を数えているうちに

雪が舞ってきた、と取ったのですが・・・。

器をしまうことと、雪が降りだすこととは別段関係がないのですが

「幾たびも」数えている間に時間がたち、夕暮れには雪。

冬という季節が終わることを静かに迎える様子が

おごそかな儀式のようです。