吉川宏志氏の第三歌集。
久しぶりに読み返していて、初めて読んだころのことを思いだしました。
まだ結社に入っておらず、好きな歌人の作品を
図書館などで探しているときにこの一冊も読んだなぁ。
まだ短歌について手探り状態だったときに
よくノートに書きとめていました。
■家族との関係
あのころのえのころ草の秋の日は二人だったそして時間があった
妻の年齢をつね二年後になぞりゆくそこから見える梅雨の草花 *年齢=とし
祖父と居て泰山木の花見上ぐ 何度目か、いやあと何回か *泰山木=たいさんぼく
幼い子供を抱え、仕事が忙しいなか
気持ちに余裕のない日々だったことが見て取れます。
妻との関係では、多忙な中で衝突することもあったのか、
夫婦という関係の難しさもうかがえます。
一首目では、もう過ぎ去ってしまった若い日々のなかの
かつて恋人だった自分たちの姿をみつめています。
上の句の語順が面白くて、「えのころ草」のふっくらしたフォルムや
秋の日のやわらかさ、それらがすでに過去であることが
読んでいる最中にふんわりと手渡されます。
妻が年上であるゆえに年齢は常に後を追うことになる。
二年、という固定された時間の差、
その間からすこし憂鬱な梅雨の景色を見ている
ちょっと鬱屈した感じの伝わる歌です。
三首目は故郷の祖父の歌。
祖父の年齢を考えると、一緒に過ごせる時間に
もう限りがあることを意識せざるを得ないのでしょう。
残り時間を考えるとき、急に時間の流れを意識することになります。
過去から今後への意識の転換におかれた読点が効果的です。
■社会との接点
アメリカが生贄をゆびさすまでのひどくしずかな秋が過ぎてゆく *生贄=いけにえ
テロ死者の9という文字ちらちらと電車のなかの新聞そよぐ
当時の空気感を思いだします。
起こってしまった大きな出来事と
自らの接点を捉える歌もあります。
一首目は、9・11その後の動きをとらえていて
「生贄」が決まる前のひどく静かな時間を詠んでいて
その静けさがかえって怖い。
二首目は通勤電車のなかで
だれかが読んでいる新聞が見えているのでしょう。
世界で大きな出来事が起こっているけど、
一般市民が知るとすれば、なにかメディアを通じてになります。
あくまで報道という大量の情報の向こうからやってくる現実。
電車の揺れのなかで「9という文字」がやけに目立っていて
「そよぐ」という動詞に危うさを感じます。
■働くということ
眼がどろり疲れて帰るゆうやみに弥生の白い椿、消えたい
好きなことだけして生きるなんて嘘 橋といっしょに雪に濡れたり
働きて人は変わってゆくのだろう雪の夜卓にクリップが輝る
*夜=よ 輝る=てる
この歌集の中で一番印象深かったのが、働くことの歌でした。
今回引いたこれらの歌は、
「弥生の白い椿」という連作の中におかれている三首です。
仕事でなにかミスをして、ひどく疲れてしまった心境が
痛切な感じで残っている連作です。
一首目では初句、二句の疲労の重さと
「弥生の白い椿」というほのかに明るい花の対比がつらい。
「消えたい」というこれ以上ない本音が
無防備に置かれていて、危ういくらい。
二首目も働いていくことの苦しさを吐露していて痛切。
帰宅時に「橋」という背景といっしょになって
雪に溶けていきそうなくらいの希薄さ。
三首目では上の句の心理と、
下の句の「クリップ」の細い輝きの呼応が
とても儚くて脆い感じ。
働いていくなかで味わう苦しさやつらさ、
その心理は勤めている人なら形は変わっても味わうでしょう。
単に仕事のつらさを書きとめるだけでなくて、
短歌の文体をつかって作品に昇華しているさまに
かつて強烈に惹かれた記憶があります。
家族、仕事、社会的な事件、歴史への関心など
過ぎ去っていく毎日を
短歌という作品の形で残す術を
この一冊を読みながら感じ取ったのではないか、と
いま振り返って思うのです。