灯台の光が一周するまでの闇に思いしヴァージニアウルフ 小山 美保子 P96
ヴァージニア・ウルフの小説に『灯台へ』という小説があるので
そこからの連想かな、とは思います。
「一周するまでの闇」という点が興味ぶかく
灯台の光が周っている限られた時間のなかで
触発される記憶は主体にとって
なにか深い部分から引っ張られた感じがするのです。
翠の淵に守りたきもの在ることを真白な便箋にしたためる人 森 雪子 P107
「翠の淵」というのが具体的に何なのか不明なのですが
「翠」という色のせいもあって静謐、神秘的なイメージでとらえました。
「真白な便箋」というアイテムが考えを綴っている人の
潔癖さとか気持ちの強さを伝えています。
ただ上の句がとても抽象的なので
「真白な便箋」をもう少し具体的に描写してもいいかな、とも思います。
夕暮れの釜飯屋さんの行列に名字で呼び合っているわたしたち 逢坂 みずき P115
今回の詠草から、ちょっとした旅行での歌だろうな、と思います。
でも一緒に行っている人とは「名字で呼び合っている」ので
ちょっと距離があるんですよね。
「釜飯屋さん」っていう場所や「行列」がよくて
いつもとは違う空間に紛れ込んでいる感じがあります。
「やり直したいと思う?」とメール来ぬ元恋人はひまはり畑 *来ぬ=きぬ
永山 凌平 P120
「やり直したいと思う?」とはすこしずるい聞きかたかもしれない。
疑問形で聞くことで、どちらの答えが返ってきても
返信した相手の意図任せで
自らはあまり責任を負わなくてもいいようなニュアンスがあります。
そんな元恋人のズルささえあまり否定的にならずに描いています。
元カノではなくて、「元恋人」という表現も軽くなりすぎない言葉の選択です。
結句の「ひまはり畑」でぼんやりと明るいイメージに飛躍します。
玄関のあかりを灯す みずうみに確かに触れてきた指先で 紫野 春 P132
作者は東京に住んでいるようですが、
久しぶりに河川や湖のあるエリアに行ったことが
一連の作品の中からわかります。
いつもの住まいに帰ってきて、まずつける玄関の灯。
指先がいつもとは違う温度や色に触れてきたことを
思いだして、その冷たさにまだ非日常の感覚を見出しています。
普段の生活にもどればたぶん忘れてしまう感覚で、
かすかに身体に残る湖での時間を惜しんでいる歌です。
秋晴れの(わたしの消えた)校庭にりっしんべんのように立つきみ 田村 穂隆 P133
校庭は広い。秋晴れならなおさら広く感じそう。
もう主体がその校庭に立つことはないのだろうけど、
「きみ」がまだいることは知っているようです。
自分自身がもういない空間の広がりと、
ぽつんと立つ人の存在の儚さや頼りなさを面白い表現で描いています。
「りっしんべんのように」とは面白い比喩で
「心」を偏にした部首なので
「きみ」の心情を思っている主体の細やかさが伺えます。
またちょっとひょろっとしたイメージの「りっしんべん」なので
校庭の広さとの対比にもなっていると思います。
(わたしの消えた)は評価が分かれるかもしれないのですが
かつていたけど、もういないという事実を
途中で強引に差し込んでおきたかった表現なんだろう、と
わりと肯定的に見ています。