塔10月号には興味深い評論が載っていました。
大岡信の書籍について3人の評者が書いていました。
私が特に興味を持ったのは沼尻つた子さんによる
『うたげと孤心』に関する文章でした。
ちょっと読んでみたくなりますね。
では月集から。
死者が手を洗えるごとき水の音トンネルのなかに広がりゆきぬ 吉川 宏志 P2
廃線を歩いたときの歌らしい。
「死者が手を洗えるごとき」という比喩がやはりいい。
人気のない薄暗い廃線、
その不気味さやすたれた感じを伝える言葉だと思います。
「広がりゆきぬ」がトンネルの中にいる感じが出ていて
たしかに音が響く様子がわかります。
いま、その場にいなくても、まるでそこに自分もいるかのように
読者に思わせるのも描写の力の表れです。
宙に跳び地に落ちるまで熱き熱き薬莢は陽に美しからん 三井 修 P3
武器にも武器特有の美しさってあります。
この歌では、薬莢が撃たれて空中を跳ぶ様子を
スローモーションのように描いています。
短い時間のなかで
熱を帯び、光を反射しているだろう薬莢。
ごく小さなパーツを
存在感をもって描いています。
東入ル西入ル上ル下ルなり今日も飛び交ふ京の燕は 上田 善朗 P6
「東入ル西入ル上ル下ル」は京都の地名によく使われています。
碁盤の目と言われる街ならではの住所の記載だな、と
感心したことがあります。
人だけでなく燕が飛び交う様子につなげたところが面白く
町家の間を燕がせわしなく飛んでいる光景が思い浮かびました。
半分を剝き終へて何かくるしくて林檎の白き肌のなかに *肌=はだへ
梶原さい子 P7
林檎を剥いているときの歌ですが、
半分くらい剥いたところでちょっと手を止めたのでしょう。
赤い林檎を剥いていくことで現われてくる白い果肉、
それを「白き肌」としたことでなんだか
生々しい感じもします。
結句を言いさしで終えているので、
読者もそこですこし立ち止まる感じになります。
余韻のある終わりかたになっていると思います。
鏡池に夜ごと映りし月の縁かじって魚は肥えてゆくのか *縁=ふち
土屋 千鶴 P11
「鏡池」って面白い名前ですが長野県にあるんですね。
池の水面に映る月の端っこに
魚が口を出しているのでしょう。
「月の縁かじって」がユーモラス。
パクパク口を動かしているから
出てきた表現かな、と思います。
動きがイメージできて楽しい歌です。
その幹の白さは死者の素足のようしっかり掴むことはできない 藤田 千鶴 P13
ひとつ前の歌から察するに白樺かな、と思いますが
白樺の幹の白さって独特だったなと思いだします。
「死者の素足のよう」がちょっと怖い比喩で
樹なのにあの白さは確かにそうかも、と思います。
手を触れて掴む、ということをためらうほどの白さを
脳裏に思い浮かべながら味わう歌です。
感情はときにわれより長身で水楢の若葉ふれながら行く 山下 泉 P15
水楢の木立を歩いているときかな。
「感情はときにわれより長身で」という表現がとてもよくて、
感情が主体を抜け出して、樹に触れているという発想が楽しい。
樹々のもとにいるときの気持ちの良さや爽快感を
のびやかに詠んでいる歌です。