波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

第7回クロストーク短歌

先日、クロストーク短歌という
吉川宏志さんが行っている短歌の勉強会に行ってきました。
内容が興味深いので毎回行っています。

さて今回は「あれから5年 東日本大震災の歌を再読する」ということで
ゲストに梶原さい子さんをお迎えして震災詠を読んで考えてみました。

私にとっては震災詠はなんとなく避けておきたい気持ちが割と強くありました。
総合誌などに載っている震災詠はいろいろあったしそれらを見てきましたよ。
でも直接被災していない人が短歌で詠むってどうなの?って
いう気持ちが強くなったのと、
一時的な気持ちに任せて詠んでいる人も多いから詠み続ける人は多くないだろう、
そんなにいい作品は必ずしも多くないな、と思ったのとで
すこし冷めた目で見るようになりました。

私の親戚が当時、宮城県在住で
東日本大震災のときに多少の被害を受けたし、
親戚は無事だったけど数日連絡がつかなかったので
その時の心情を短歌に詠んだことはあります。
でも後になって、詠まなくてもよかったかな、
という気持ちも芽ばえました。
あふれるように量産される震災詠にのっかっただけかな、
みたいに自分の中で思ったんだと思います。

あまたなる死を見しひとと見ざりしひとと時の経つほど引き裂かれゆく

震災詠はもういいぢやない 座布団の薄きの上に言はれてをりぬ

女なり男なりを超えたるかたち網に掛かりて帰りたまひき

                    梶原 さい子『リアス/椿』

一首目はよくわかる歌で、私も「見ざりしひと」の側にいるのです。
立場や感覚の違いで引き裂かれたまま疎遠になっていく感じかな、
よくあることだと思いつつ、いくつもの断絶がうまれていくのをどうにもできない。

二首目は言った人には言った人の考えがあったんでしょう。
最初にこの歌を読んだときには、親族とか地域の親しい人から
「もういいかげんにしといてよ」みたいな意味で言われたのかなとか
思っていました。
「座布団の薄きの上に」ってところでその場の空気感出ていていいですね。

三首目はかなり残酷なシーンのはずですが
漁をしていると遺体があがることがあるらしいですね。
「帰りたまひき」という敬語で
迎え入れる側の心情がよく出ています。


今回ほかにもいろんな人が詠まれた短歌を見ました。
この人たちが詠んでいる短歌を、
東日本大震災のときにはなんのダメージも受けていない私が読むことで
地震のことや当時の気持ち、5年たった今の暮らしのことを
ちょっとだけでもいいから知る、それができるという
伝達の力を思います。

もちろん知りうる内容はほんの少しに過ぎないとは思うし、
作品なのでいろいろ情報は加工されていることが多いのもわかります。

私には震災の歌を詠むことはいまのところできないのですが
詠んだ短歌のことを論じるのも大事なことなんでしょう。
どうしても遠くに感じることを少し身近に引き寄せてくれる機会だったと思います。