波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

楠 誓英 「青昏抄」

今回は楠 誓英さんの「青昏抄」を取り上げてみましょう。
前から買いたかったのですが、やっと入手・・・。

■自己の内面を見つめる歌

言ひかけてやめたる吾と合歓の葉が閉ぢて下がれり夕闇の中

面接を終へて戻れる夜の道に脳の形に鶏頭ひらく

狂ふとは狂ふおのれを知らぬこと 白壁に吾が影の伸びゆく

トルストイ伝読みゐし夜の胸内に駆けゆく橇の音聞こえくる 

 

一首目、夕方になると葉を閉じる合歓の葉と自己の心情を重ねています。
伝えようとした気持ちがしぼんでいく様子と景色の組み合わせが的確です。

二首目は面接の後のだいぶ疲れた気持ちで見かけた鶏頭の花のかたちが
脳のようだととらえています。たしかに鶏頭はそんな形ですが、
「脳の形」というとらえ方はやはり見ている人間の心理状態によるものでしょう。

三首目はすこし怖い歌。自己の把握ができなくなる様子を描いています。

四首目は「橇の音」という語がいい。
トルストイ伝」という書物と主体の内面の投影が美しい一首です。

■他者へのまなざしがある歌

ブラインドのさざ波なせる影あびて君の読みゐしカフカ『変身』

水槽の魚を眺めるまなざしに本読む君を僕は見てゐた

地軸ほど頭傾げて青年の立ち読みしてゐる哲学の本

臼歯ほどの消しゴムを取りに少年は小教室に戻りて来たり

一首目と二首目は歌集のなかで並んでいます。
「ブラインドのさざ波なせる影」「水槽の魚を眺めるまなざし」といった
細やかな描写が作品を支えています。

三首目の「地軸ほど頭傾げて」で、あぁいるなぁ、こういうひと、
というどこかで見た光景が読者の中で再現されます。

四首目はとても「臼歯ほどの消しゴム」という小さな物を描くことで
少年の内面を描いています。
繰り返されるシの音が、なんだか乾いた印象を生んでいます。

■震災の記憶からうまれる歌

震災の瓦礫の中をゆく祖父の棺は揺れる舟歌のやう

大鳥居の根元につきし貝の死骸なぜだか兄の骨に見えくる

暗渠に棲む魚に目はなく夢をみるその夢の間を生きてゐる吾ら

死者の路あるためいつも天窓を開いてゐるのか体育館は

阪神大震災に遭い、家族を失ったことは楠さんにとって
ずっと消えない傷になっていて、歌のなかに繰り返し繰り返し出てきます。

一首目や二首目にはその記憶が顕著に出ています。
時間が経過しても、かつて起こった悲しい出来事は
生き残った人のなかで何度も何度も再生されます。
現実のある隙間に姿をあらわす「兄の骨」は
作者のなかに再生される過去と、目の前の現実との接点なのでしょう。

三首目の「夢の間を生きてゐる吾ら」は生き残ったひとのことと読むと、とても悲しい歌。

四首目、家族の死だけでなく、震災によって生じた膨大な死を知っている者に
特有の感覚かもしれません。現実と死の世界との境目がじつはそう遠くないと
知っているから見える光景だと思うのです。

生き残った人の眼に見える、死との接点がこの歌集の
とても大きな特徴になっています。

 

相容れぬ哀しみあればくり返し入れても出てくる硬貨が光る

最後にこの歌を。
自販機で飲み物など買おうとするときのしぐさと
自己のなかで整理のつかない「相容れぬ哀しみ」とが接続されています。
日常の何でもないシーンとの結びつきで描かれているので
作者のなかの混沌とした様子がかえって伝わります。

どうにもできない過去に受けた傷とどう向き合っていくのか、
その変化も含めて今後の作品を待ちたいと思います。