波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

「エフライムの岸」と旧約聖書

ちょっとおまけで記事を追加です。
歌集のタイトルになっている「エフライムの岸」は旧約聖書に出てくる『士師記』のなかのシーンにちなんでいるそうです。

 シイボレト(つぎ)シイボレト(言つてみよ)シイボレト(ゆけ)シボレト(ゐたぞ)

      真中朋久『訛音』「エフライムの岸」

岩波書店の「旧約聖書2」のなかに以下の記述があります。

ギルアドは、エフライムへと渡るヨルダン河の渡し場を攻め取った。
エフライムの逃亡兵が「渡らせてくれ」と言ってくると、ギルアドの男たちはその者に「お前はエフライム人か」と質したのである。
その者が「いいえ」と答えると、彼らは「では、『シボレト』と言って見ろ」と言った。
その者が「スィボレト」と言って、正しく発音できないと、彼らはその者を捕らえ、ヨルダン河の渡し場で殺した。
こうしてこのとき、エフライムの四万二千人が倒れた。
      鈴木佳秀『士師記』  旧約聖書翻訳委員会「旧約聖書2」岩波書店  124-125頁 

実際に命までとられることはないとしても、違いをもって他者を選別して排除することはいまでもあるし、
きっとこれからも延々と続くのだろうと思います。

違いをもって排除したり差別したりするのはたやすいことで、歴史のなかで延々と行われてきたこと。
ささいなことで、あるいはどうにもできない差異で敵と味方を分けていくのもよくあること。
誰のなかにも凶暴な部分はあって、他者に向かって一気に吹き出すこともあるのです。
そして私のなかにも存在する感覚なのだということは自分で認めておかないといけないだろうと思います。
自分のなかの穢れを自覚できない人が、他者の非道を非難しても無意味だろうと思っています。

「エフライムの岸」は表紙はシンプルなベージュ、でも横にして頁部分を見ると、ブルーになっています。
1冊で河とその両岸を表すような色合いのデザインになっているのでしょう。
多くのひとが殺された河岸にあってどんな言葉を紡いでいくのか、そのひとつの答えという意図を感じます。

「エフライムの岸」を読んでいるとなんだかどっしりした重い気分になりました。
(暗い気持ちではないです)
人間や世の中の汚い部分はずっと存在するだろうから、
その中でどう自分の言葉を置いていくのか、それを改めて考えてみようと、そういう気持ちなのです。